聞こえない音楽
聞こえない音楽を聞いてしまった。時速250キロで走行する新幹線の中で、僕は聞こえないはずの音楽を聞いた。聞くつもりはなかったし、まさかこんなところで演奏されているなんて思いもしなかった。どうやら、音楽は若い女性の車掌さんから漏れ出てくるらしかった。
「切符を拝見させていただきます」
そう告げた彼女を追いかけていた。今となってはどうでもいいような用件だけど、とにかく用があって車掌さんを探していたのだ。当然、最後尾に彼女はいるはずだった。客室を出て狭い通路をたどった先に明かりの消えた運転室があった。人の気配があることだけを頼りに扉をノックしようとすると、突然甲高い声が響いた。
「オペラ……」
ソプラノだった。ひっそりとした運転室の奥で、車掌さんがオペラを歌っていた。誰ひとり聞く人はいない、そう信じてアリアを独唱していた。ひょっとしたら、大学で声楽を学んでいたのかもしれない。本当はオペラ歌手になりたかったのかも。ふいにそう思った。僕じゃない。歌声がそう語っていた。
僕は逃げるように座席に戻った。知ってはいけない彼女の過去を人づてに聞いてしまったようなばつの悪さだった。今出てこられたら、会わす顔がない。
「品川には何時に着きます?」
確か、そんなことを話したと思う。明るい座席で見る彼女の顔は平静そのものだった。不公平なくらいこちらばかりがドギマギしてる。
「あの、歌ってましたよね?」
聞けなかった。そう聞いてしまう代わりに、僕は黙って微笑んでみせた。車掌さんは不思議そうに僕を見つめ、やっと聞こえるような小さな声で「お気をつけて」と微笑み返した。彼女は慣れた足取りで通路を進み、出入口で深く頭を下げると自動ドアの向こうに消えた。
叶えられなかった夢はどこに行くのだろう。
到着を知らせるアナウンスが流れる中、僕はぼんやりと考えていた。夢はしっぽの生えた小さな音符になって胸の底に沈み込み、いつしか清らかな音楽になる。笑ったり怒ったり愛しあっているあいだも、ずっとその人の中で息づいている。ただ、聞こえないだけ。そして、何かの拍子に音楽はあふれ出てくるのだろう。たとえば、新幹線の運転室が薄暗いとか、ここでなら歌ってもいいんだとか、そんな詩にも小説にもならないような理由で。
品川駅のホームは人でごった返していた。どの人も追われるように何かを目指していた。僕は立ち止まって息をつく。ここにいる一人ひとりの足音をたどって行けばどの人からも聞こえない音楽が聞こえてきそうで、この星のこの国の東京という夢に耳を押しあててみたくなる。そっと目を閉じて、耳をすます。気がつくと、何人かの人と目が合っている。
人って、愛おしい。