【短編小説】とうめいなあめ 後編
木漏れ日が燦々と降り注いでいる。
地面にも光は溢れて私と奴の身体をゆっくりと包み込む。
雨は陽気に葉の隙間から滴って、地べたに多数の水たまりを作っていた。
「ねぇ、来ないの」
いつのまにか振り解いた手をもう一度奴は私に差し伸べている。
こいつの言うことを聞くのは癪に触るが、行くしかなかった。
この狭い空間の中に満たされている世界に私は浸りたかった。小学生の時を思い出しながら、この中に、阿呆のように。
手をすり抜けて進む。ここは森の中の穴。ここだけ木の生えていない穴。
真ん中に切株があった。泥を踏み分け、そこに腰掛けた。
「懐かしい?」
「まぁ」
「良かった」
奴はにこにこと人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。
なぜそんな顔が出来る。人に媚び諂うような、そんな顔を。そしてなぜ、そんな顔を私に向ける。こんな私に。
ああ、うるさい。言葉は言わずともお前のその馬鹿の様な顔が。
何も分かっていない、私のことなど。お前はただ私の様な惨めな者に優しくする事で自分の自己欲を吊し上げているだけだろう。そうなんだろう、偽善者よ。
「覚えてる? ここにいた時のこと」
奴は私の隣に腰掛けた。少し横にずれると、そいつも少し横にずれた。
「覚えてるもなにも……」
「いや、僕のことを知っているはずだよ。僕は未愛の事知ってるから。覚えてるから。忘れないから」
顔を覗き込まれる。目を逸らした。
知っている? 私が?
いくら記憶を辿ってもこいつに会った事はない。こいつの勘違いだろう。こいつの言う未愛は私じゃない。
「知らないよ」
それを聞いた途端、そいつは顔を伏せた。顔を覆った両手から、はらはらと雫が落ちる。
「覚えてないんだね……本当に、僕のことを忘れてしまったんだね」
なんだ、貧弱な。人前にそんな姿を晒して恥ずかしくないのか。自分の弱さを晒け出して人にかまってもらおうということか。そうやって人に心配してもらって、のうのうと生きている様な奴が私は一番嫌いなんだ。
そんな風に生きていける程人間の世は甘くない。そんな人間が評価され、人望が集まる世界など存在するべきではない。今すぐに壊れてしまえば良い。
顔を両手で塞いで、そのまま動かない。指の間から零れ落ちる水の正体がなんであろうと、お前のその丸まった背中は私の神経を逆撫でする。
すっかり悲劇の主人公ぶりやがって。人ひとりに忘れられたくらいでそんなふうになりやがって。
お前は考えが甘い。堪え性も無い。未熟すぎる。不完全すぎる。見ていて虫唾が走るんだ。 思わずその白い首に手をかけた。
やつの身体は強く地面に叩きつけられる。
顔を覆うその両手が、ゆっくりと開かれた。
目が合った瞬間分かった。
こいつは私なのだと。
分かる、何よりも分かる。私のことを無視して除け者にしていたあのクラスの奴らの気持ちが。
私はこんな生き物だったのか。
これほどまでに反吐の出る生き物だったのか。
その生き物の息の根を止める。
目一杯、力を込めて。全身の力を全て手のひらに込めて。ゆっくり、そして確実に気管を塞ぐ。
しかしそれは、うめき声をあげるわけでもなく、ただ、ゆっくりと笑った。
それが運命だと受け入れるかのように。
私の目を見て安心したかのように。
その姿勢にも腹が立った。
最期にそんなふうにあたかも聖人であるように振る舞うのか、この偽善者め。
先程まで泣いていたくせに。一貫性が無い。何がしたいんだ、何が言いたいんだ。私の目を見て笑うな。そんなふうに笑うな。
自然と手に力がこもる。もっと、もっと殺してやりたい。これは早くこの世から消え去るべきなんだ。それが私のためでもあるし、世界の為でもある。
これは存在してはいけないのだ。早く、息の根を止めなければならない。
どのくらいの間そうしていたのだろう。
ただ、雨だけが私たちの間を埋めている。
手は泥だらけ。服も泥まみれ。真っ赤な泥まみれ。
私は殺した。目の前のこれを殺した。
胸から何かが迫り上がってくる。鼻がつんとしたと思うと、雫がはらはらと落ちていく。
あぁ、クソ。こんな奴のために私は泣いている。悲しんでいる。
殺したことを後悔している。忘れたことを後悔している。どれほど泣いてもこの気持ちが冷めることは無い。泣いたところで何の解決にもならない。それでも私は泣き続ける。そうする以外、何をしたらいいのか分からない。
今すぐ叫び出したい。逃げ出したい。
けれど腰には力が入らず、濡れた身体がだるくてしょうがない。他には何も考えたく無い。あろう事か、この苦しみにずっと浸っていたいなどと思っている。
海の中の海藻の様に、この気持ちの中を漂って、この気持ちに包まれて、そのまま一生を終えたい。これの事を考えていたい。
これのことを愛していた様な気もするし、何よりも大切なものの様な気がするのだ。
ずっと、一緒にいる事ができれば良かった。せめて、覚えている事ができていれば良かった。
しかし私は、もうこれの事を思い出さない。殺した事も思い出さない。
そうやって私は、大人になるのだから。
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