電車の窓から
2020年4月19日
電車の窓をぼーっと見ている。
そうすると、毎日同じ人が、同じベランダから、こちらを見ている。
かなり遠い場所なのだが、毎回目が合う。
彼女は、いつも気の抜けたスウェットの上下に、パーカーを着ている。
洗濯物の下で煙草をふかして、つまらなさそうにこちらを見ている。
私はいつも目が合うと思うのだが、彼女はどう思っているのだろうか。目が合うと思うなんて、私の思い過ごしだろう。
今日もまた、気だるそうに煙草をくゆらせている。
ふと、手を振ってみる。彼女は気が付いて、手を上げる。はっ、とした時にはもう彼女は見えない。
慌てて次の停車駅で降りる。線路沿いに、来た方向に戻る。アパートが見えないかどうか、道側を確認する。
五分ほど歩くとアパートが見えた。
彼女はにやにやこちらを見ている。
アパートの下まで辿り着く。彼女はまだにやにやしている。
「おいでよ、202号室」
彼女は頭上からそう言う。彼女が煙草から口を離したところを初めて見たかもしれない。
アパートのブリキの壊れそうな階段を昇る。ガチャガチャ音が鳴る。
202号室。
その扉を開ける。鍵はかかってない。なんと不用心。レースのカーテンが揺れている。
カーテンの隙間から、彼女の背中が見える。
黒いパーカー、灰色のスウェット。いつも見た彼女。
靴を脱いで、部屋を通り抜けて、カーテンを避けて、彼女の隣に立つ。
彼女は黙って煙草を差し出す。
「いや、私は」
「吸わないの?つまらないの」
そして、差し出した煙草に火をつけて、また吸い始める。
「ずっと聞きたかったけどさ」
彼女はこちらを見ない。
「洗濯物の下で、煙草なんか吸っていいの?」
彼女は大声で笑う。そのまま手から煙草を落としてしまいそうなくらいには。
「そんなこと気にする様な人に見える?可笑しい人」
彼女は煙草を私の口に突っ込む。
「吸いなよ、そうすれば分かるよ」
煙草の煙が肺の中に入ってくる。煙草特有のあの匂いが鼻の中に絡みついてくる。
感じたことも無い感覚に咳き込む。
彼女はそれを見て笑い転げる。
「あはは、まだ分からないか。まぁ、慣れれば最高の匂い。洗濯物はむしろ、この匂いに染め上げたくて」
「そんなものなのかな」
今度はゆっくりと煙草の煙を吸う。
ゆっくり、そっと吸えば苦しくは無いかもしれない。彼女はこちらをみてにこりとする。
電車の音がする。私がいつも乗っている電車。窓から人を見ようとしても、見えない。
「よっぽど目がいいんだね」
「いや、そんなでもないよ。貴方がたまたま目に付いただけ」
煙草の煙が空中に消える。
「貴方が今日手を振ってくれて嬉しかった。こうやってお話できるの楽しみにしてた」
彼女は灰皿に吸殻を押し付けると、また新しい煙草に火をつけた。