三澤海岸

朝8時。通勤ラッシュでごった返す黒山が、目の前を通り過ぎる。私はホームの端の柱に寄りかかり、人を待つふりをして、人々を見つめる。
人々は、意志を持った肉の塊だ。果てしなく物に近い。だが生き物であり、それがどうしようもなく気持ちが悪い。そして、私自身もそれであり、また、それ自身によって構築された、複雑な生活の網目の中に身を置いている。それが嫌だった。こうして私が網目から逃れたかのようなフリをしても、それらは決死の意志を持って、私を逃さない。いや、私がそれとして存在する時点で、この網目から逃れられるわけがないのだが。
赤い列車が止まる。私はそれに乗り込んだ。三澤海岸まで。とにかく海がみたい。

がたがたと列車は叫ぶ。時折鳴くぎぃという音が、耳を突き刺した。
窓の外は海岸に近づくに連れて、ピンク色になっていく。建物は全てその色に塗られているのだ。なんとも滑稽だが、これは女性進出を必死に呼びかける行政の方針らしい。ピンク色が女の色とは甚だおかしい。色に男も女も無い。私の好きな色が私の色だ。それ以上でも、それ以下でもない。女がみんなこの色を好きだとは到底思えないし。
おおうぅと、クジラのなく声がした。緑色の海の真上を優雅に泳ぐ。海は近い。

「次は、三澤海岸。三澤海岸でございます」
向かい側のドアが開く。駆け下りて駅に着くと、遠くの方に海が見えた。海岸と言うから、砂浜の上に駅があるのかと思っていたが、違うようだ。

ぱたぱたといちごみるくの中を歩いていく。右も左もいちごみるく。同じ形をした、いちごみるくだ。どこまで歩いたか、分からなくなりそうだ。右に曲がったら駅に戻ってきてしまった。これはまた、歩き直さなければならない。何度も様々な駅にたどり着きながらも、海岸に着くことが出来た。緑色の海、青い砂浜、黒い波。打ち寄せては返し、打ち寄せては返す。
海が青くなくなったのは、いつからだろうか。昔は青かった。人によってはーーまぁ、ほとんどの人が、今も海は青いという。始めは青い海が恋しかった。ある日から、海も、砂浜も、波も、色を変えた。しかし見なれてしまえばなんてことは無い。青と白が爽やかで素敵だと誰が決めただろう。私は青と緑。そして黒色が全てを引き締め、奇妙なコントラストを描いていた。青と白なんてチープな色よりよっぽどキレイだ。
青い砂浜に足跡を付けていく。スニーカーを両手に持ち、真っ黒なジーパンをふくらはぎまでたくしあげる。
遠くの方に、なにか……いや、人影があった。走るとそれはすぐに近くなり、そばにいた。
「君は……」彼は驚いたように何も無い顔を私の方に向ける。
「あなたこそ何しているの」
彼は膝をついて真っ白な顔を真っ白な手で覆った。コバルトブルーの砂によく映える。
砂の上に何かが落ちている。拾い上げたのは、ピンク色の拳銃だった。
「僕は死のうとしていたんだ。君が見つけなければ僕は楽になれたのに」
彼は肩を震わせた。
「なぜ?」
「誰かに見られていたら死ぬなんて……」
彼は砂浜に顔を埋めている。
「できるよ。あなたの覚悟はそんなもの?」
彼はうごかなくなってしまった。
「ねぇ」
彼の背中を必死に揺さぶる。
「僕には無理だよ……どうせ死ぬ勇気もないクズなんだ」
「そうね」
顔を上げた彼の顔に目が現れた。
「そうだよ。死ぬ勇気もないんだよ。あなたはそのくらいの覚悟」
彼は何も言わない。
「分からなくていいよ。私と貴方は同じってこと。違うのは、海の色が何色に見えるのかってだけ」
ざざん、と安っぽい波の音が私たちの間を支配した。彼はそこにあるはずの口を動かした。
「なんで僕の海が青くないことを知っているの」
彼は目を大きく開いた。
もう彼の顔はのっぺらぼうでは無かった。

彼は、本当に、彼であることを誇りに思っていたし、自分の事を信じていた。けれどある日、彼は母親にその長い髪を可愛く結って貰った時であった。鏡に映った自分を見て気がついてしまった。自分が女でいるのが嫌だということに。いや、完全な女でいるのが嫌だったと言うべきか。それからは、このピンク色の街が呪いのように襲いかかってきた。求められている自分と、本当にここにいる自分は違いすぎる。ましてや、まだ1人では生きていくことができる程大人でもない。家を飛び出す勇気も無かった。彼の誇りは消えてしまった。自分のことを理解しようとして、何度も何度も考えた。彼は男になりたい訳ではなかった。けれど女になりたい訳でも無かった。そして、男でいることも、女でいることも、嫌いではなかった。彼は、性別を選ばない事にした。ましてや、身体を作り替えようとするなんてしなかった。女である体格は嫌いじゃなかった。洋服は、男らしい方が好きだった。世間は性別への答えを求めてきた。男なのか、女なのか。ハッキリとした答えが出ないことを理解してくれる人は少ない。男で女や、女で男は受け入れられるようになってきた。だが僕らはどうなる?答えや概念がない僕らは。男になりすますのも、女になりすますのも辛くなってしまった。
そして今日。母親の机から拳銃を盗み出して、ここまで来たらしい。
それを私が台無しにしたそうだ。

「実際僕は世界が全部暖色なんだ。海は赤いし、砂浜はオレンジだよ。建物はピンクのままだけど、空は赤紫だし、紛れて気にならなくなった」
彼は長いスカートの裾を捲りあげた。
「何か、全部どうでもいいなぁ。生きるのも嫌だけど、死ぬのも相当めんどくさいね。嫌になっちゃった」
波の中にざぶざぶと足を突っ込んでいく。
「今からなら家に帰って、何も無かったよって言うふりして床に就くことができるんだよね」
彼はおいでよ、と足をバタバタさせた。
私もジーパンを膝まで捲りあげて、波の中に入っていく。
「帰るの?」
私は彼の伸ばした手を取った。
「いや、帰らないかな。私はやりたいことがあって来たから」
「やりたいこと」
私は彼の手を引っ張って、東に36歩進んだ。
「知らない?この街には伝承があるの。青い龍が白い龍と闘う話なんだ」
「いや……興味ないから」
「うん、そうだろうね。それで、その話の最後に出てくる、二匹を閉じ込めた箱を開けると願いが叶うらしいのよ」
「そんな話」
「嘘だと思う?私も嘘だと思うの。でもなんか急に確かめてみたくなって」
そして私は南ーー海に向かって46歩歩みを進めた。
「結構深いね」
彼が捲りあげたスカートの裾が、海水に濡れている。
そして東に25歩歩く。足元に何かがぶつかった。
「これかな……」
私は腕を緑の海に突っ込み、底の青い砂を必死にどかした。彼は髪を耳にかけ、少し頭を傾けてこちらを見ている。
掘り出してしまうと、それは灰色の箱だった。表面には二匹の龍が掘られている。
「それが?」
「うん」
「すごい……こんな本当に見つけられるなんて」
「私も驚いてる」
しばらく箱を手の上で転がしながら、波の音を聴いていた。
「とにかく開ける」
箱を開けると、そこには何も無かった。
彼は箱を覗き込んできた。
「何も無いじゃないか」
「いや……そんなはずは無いんだけどな」
箱の中に手を突っ込んで掻き回す。何かが手のひらに引っかかる。それをつまみ上げるとそれは小さなメモだった。
慌てて開くと、それには塩水に侵食された文字がゆらゆらと書かれていた。
「なんだろうこれ……ば………野……」
「ばか野郎じゃない?」
彼はけらけらと笑っていた。
「いや、もっとこう、長そうな文章」
「そんな事ないよ、それは、ばか野郎」
「でも」
彼を見ると、吹っ切れた顔をして笑った。彼は私の手からメモを奪い取ると、箱の中に入れて、同じように埋めてしまった。
「答えがないのは嫌い?」
「いや……」
私が黙ると、彼は嬉しそうにした。
スカートをたくしあげた手を離し、海の中を駆け回る。
「君のこと何も知らないけど君は優しい人だ!それでいて嘘が付けない。すてきだよ」
彼は思い切り海に背中から飛び込んだ。
ゆらりと揺れる海の狭間から彼はゆるゆると浮かび上がって来た。私は彼に近づきたくて、海の中に膝を着いた。
「ここ死海なんだって、今日は空がすごく綺麗な色」
彼は上を指さす。私も釣られて上を見上げる。
そこにはいつも通り青い空が拡がっていた。

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