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『薄膜の力学』【短編】

コーヒーの香りが漂う、30人弱が座れるそんなお店。客が外から春を連れてきて、コーヒーとぬるまった穏やかな空気が店内を充たす。

「結婚したって何も変わらないじゃないですか。するだけ無駄無駄!」
若い女性客が放った言葉。
どこか自暴自棄な語感と、弱いものを守るため硬い甲羅を背負い込んだようなその言葉が、美園の涙でふやけたその一点を突き刺す。ついオーダーを取っていた別客の声はそっちのけで言葉の主の声に集中してしまう。

チクチクした言葉を放った客の連れが、まあまあとなだめている。
「この前付き合ったって言った子は?別れたの?」
「ええまぁ、なんか無理だったので。」

無事オーダーを取り終えた美園は2人を盗み見る。
チクチク言葉の女性客は20代後半くらいのたいそうな美人で、連れは30代中頃だろうか。ふたりともOL風、休憩時間にこの店に来たのだろう。 

先程の言葉がまだ美園の集中力を切らしていた。
店の窓から外を見ると、前にある公園に、シャボン玉が浮いて漂っている。どこかの子供が作っていったのだろうか。

シャボン玉、

コーヒーが煎り終わるのを待つ間、美園はジャン・コクトーのシャボン玉を脳内で書き記す。
まだ割れないシャボン玉。その儚い生命を維持し、歓喜できるような、明るい詩であるはずのに、美園は入り込めない庭に対する拒絶感がどうしても気になってしまって、いつの頃からかこの詩が頭からこびりついていた。それこそ、エプロンに付いたコーヒの香りと同じくらいに。

背後で一層コーヒーの香りが強まった。できたらしい。店長がキッチンからこちらに差し出す。寡黙な、蝶と花を愛でるような男だが、どうも見た目が怖いので接客には向いていない。
出来上がったブラックコーヒーとラテを持って先程のOL2人の元に向かう。
「私は人に、何か心の何かを頼りきれないんです。寄りかかりきれない、というか。もし寄りかかろうとしていたところに何も無かったら怖いじゃないですか。寄りかかって支えていた筋肉がなくなって元に戻れなくなってしまったら、怖いんです。」
うんうん、と先輩OLはただ頷いているだけだった。カップ並々のブラックコーヒーの表面が揺らいだ。
美園には彼女の頼れない、その気持ちがよくわかる。わかる。

だから、私はまだシャボン玉なんだ。

「カフェラテご注文のお客様。」
はい、と先輩OLが手を軽くあげる。
意外。チクチク言葉OLがブラックなのか。
「お後、ブラックコーヒーです。」そう言いながら木製の机にカップを置く。温もりのある、コトリというささやかな音を聞く。
後輩チクチクOLは頭からつま先まで美しく、意識がいき渡っていて、綺麗だった。
シャボン玉のようにキラキラ虹色に光を反射するのだろう。
シャボン玉のように。

薄い膜は、意外にその力学を変えられない。


1136字。
美園が思い出した詩はジャン・コクトー作、堀口大学訳の『シャボン玉』です。

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