どうしたら着物の看板が生まれるんだろう? 八
おはようございます
着物推しの紅です。
1日が経つのが早くて
歳を取ったのだなあと思う。
〈 看板屋さんに電話してみた の巻 〉
ネットで検索したり、知人に尋ねたりして看板屋さんを探した。
そうそう、電話帳。
調べてみた。
検索ではたどり着けない看板屋さんもあった。
8件を選び、メモに書き出した。
選ぶ基準は近い店。
個人対個人で対応してくれる店がいいな。
一番近いお店に電話してみた。
担当さんがいないとのことで
忘れた頃に折り返しの電話。
近いうちに工事の方と訪問してくれるそうだ。
今日は津波避難訓練があるらしい
警報が鳴る
くらいしか情報がない。
ネットを検索してもその程度。
なんのためにやるんだろう?
東日本大震災があってまだ間もない頃に避難訓練があったときは
津波到達地域の方々が公民館に行くことになっていたようで
家の前の道路が人だらけになった。
「これでいいの?」
と思った。
うちは津波到達地域ではなく浸水地域でもないので避難の必要はないらしい。
が、警報が出て門前が人で溢れるし、近くの公民館は要避難地域の人々であふれるわけだから、紅は外に出ることも、避難行動をすることも無理だなと感じた。
「どこにも逃げられない」
もしかしたら
支援する立場になるんじゃね?
#20人分くらいなら炊き出しはできると思う
要避難地域の方と顔見知りになって、それぞれ割り振りをして何件かの避難せずに住む地域のお宅に一時的に避難していただくこと、そんな人的交流をしておいたらいいのに。
人が流されてしまう前に。
それこそ防災だと思う。
被害が出てから支援を立ち上げて寄付を募るのでは遅いってことわからないはずないのに。
大地震が来て津波がやってきそうな時には
紅だって助けられるなら人を助けたい。
もちろん、助かるなら助けていただきたい。
事前に緩くつながっておけばいいのに。
火事場泥棒みたいな人がいるのかもしれないけど、そんなこと言ってる場合じゃないんだと思うよ。
膨大な予算を使って行政は一体何してるの?
紅は25年前の阪神淡路大震災の被災者。
3年前の台風でも被災した。
両方とも避難所には行かずに済んだ。
家にこもっていたので修羅場は見ていない。
口に出さなければ人には知られない
「個人的被災者」
罹災証明はもらったけど被災者にはカウントされていないだろう。
震災にあった時には
紅は自分が被災者だとは思っていなかった。
連日の報道で自分よりも大変な状況の方々の様子が聞こえていたから。
水を受け取りに小学校に行ったり、食料買い出しにスーパーに行くと地方から炊き出しに来てくださっている方々が道端でおにぎりなどを配ってくれていた。
「自分は被災者じゃない。もっと困っている方がいる」
と思っていた紅は
炊き出しを受け取らなかった。
まだ関西に越してきて間がなかったのと、まだそれほど親しくなかった地元の人は親戚宅に疎開してしまったので、ゴーストタウンになっていた。
紅のことを心配してくれる人は誰ひとりいなかった。
今振り返るとけっこう危険な状態だったかも。
食料が欠乏していたというよりも、余震が続く中の緊張と孤独などの精神的なストレスで
食事があまりとれなかったんだと思う。
体重が30キロ台になっていた。
そんな経験をしていたから
いま、コミュニティを作りたいんだなって今わかった。
コミュニティづくりに取り組んで6年くらいになる。
一人でご飯を食べることが多いだろう方達に声かけて
「一緒にご飯を食べる会」
を定期定期にやってみた。
そのあと少し発展して
「住みびらきの集い場」
をやってみた。
定年退職したおじさんばかりで、集まると酒飲みたがる。
主旨を理解することもなく、支援もなく、かと言ってお金を落としてくれることもなく頓挫した。
そうして今は一人で無理なくできるガレージセールを週一回している。
そろそろ時間だ。
今日の写真は博多の名古屋帯
色使いが斬新。 紅