「見てくれてる」というモチベーション
「キックオフのエネルギー」と「走り続けるエネルギー」の違い
「〇〇をしよう」や「△△をやめよう」という習慣のスタート or ストップには、何かしらのキッカケがあって、決断があって、一歩目を踏み出すモチベーションのようなものがあって。
瞬間的に弾けるエネルギー。まぁ、時にそれを「思いつき」と呼ぶこともあるかも?
人の気持ちには質量保存の法則が当てはまらないのか、始めた習慣 or やめた習慣を「やり続ける」「やめ続ける」ためには、やはりまた燃料が必要で。
それは目に見える効果であったり、自身が認識できる変化であったりといったものが当てはまったりするのかな?
キックオフの時とは違い、どちらかというと炭火のように火種を絶やさずにいるような感じかな。時にそれを「努力」とか呼んだりするのかな?
ところが物事の全てが、即座に効果が見えるものばかりじゃない。まぁ、だから皆「可視化」というものをありがたがってしまうのだけども。中には「あれ?変化しちゃってる?気づかなかった」みたいなものもあったりする。
こういった変化や効果が自身に自覚しにくいものを継続するのは、本当に難しい。
継続する意義はあるのか?もっと他にリソースを使った方がよいのではないか?などと思ってしまうことも、あるかもしれない。そう思ってしまってる時点で、その継続していることへの魅力が薄れてしまっているかもだけど。
「いやいや、可視化されないところ、目に見えないところ、自覚できないところにこそ、ナニカが宿るのだよ」という気持ちと、「そうはいってもなぁ・・・限られた時間しかないし」などという気持ちが、せめぎあう。
そんな経験、したことない?
今の自分にとっては、「ブクログ」と「ラジオ動画」などがそれに当てはまる。
決して継続したくないなんて思ってないのだけどね。時々、「これ、意味あるんかな?」なんて思うことが・・・本当に時々、ある。
そんな2つのコンテンツを、細々と続けることができる燃料、喜餅にとっての「炭火」のようなモチベーションの、最たるものが、「見てるよ」というコメントなのだよね。
この記事は、「あなたの観察力、そしてそれをしっかりと言語化することで、あなたの周囲を元気づけてることになりますよ」なんて話。
「ブクログ」では、「要約力」と「読書仲間」を。
「ブクログ」はSNSサービスみたいなもので、そこでアカウントを持っている人同士でフォローしたりフォローされたりする。もちろんアカウントを持っていない人も閲覧することができる。
喜餅のブクログ The Shop Around the Corner
自分がこのサービスを気に入ってるのは、本屋さんの面陳のように登録した本の表紙部分を眺めることができるのだよね。ネット上の個人本屋さんみたいな感じ。
※ちなみに「The Shop Around the Corner」という名前は、映画「You've Got Mail」(ユーガッタメール)でメグライアン演じるキャサリンケリーが経営している小さな本屋さんの名前。トムハンクス演じるジョーフォックスの巨大資本によって展開する本屋チェーンに飲み込まれるところも、映画の一つの流れ。
「書評」なんて言葉が当てはまるとは思えない陳腐なものだけど、あらすじ・概略で本を紹介し、書評で感想などを述べる構成にしている。
2024年2月7日現在、334冊の本を登録してある。他の方達は「読みたい本」なども登録してるみたいだけど、自分は「読み終えた本」のみを登録していて、その全てにレビューを書いてある。
「読書感想文」で(少なくとも)育った自分は、勝手に「日本人は感想を述べることはできても、要約をすることは苦手なのではないか?」と思っていて。だから「概略(あらすじ)」箇所と、自分の意見を述べる「書評」箇所を設けようと思って。
別記事にしようと思ってるけど、☆の数で評価はしていない。できればレビュー部分を見てもらって、「ちょっと読んでみようかな」なんて思ってもらえるといいなと思っている。
「面白い」という言葉は、悪魔的に幅が広いからね。そして、読者としての違うも、悪魔的に違うから。これは、優劣の問題では、ないよ。
☆に飛びつく人は、「あ、違うわ」と斬る判断も早いのかもなという考えもあってね。「喜餅が☆5つつけたから読もう」→「いやいや、全然面白くないやん。喜餅のセンスに草www」みたいなの、困るもん(笑)
あと、陳列(?)されている本を眺めてもらって、「喜餅ってどんな人?」なんて想像してもらえたら嬉しいなぁとか、そんなことも思ったりしててね。
「えーこんな本、読んでるの?ヤバくない?」なんてこともあるかもだけど、「へーこんな本、読んでるんだ」なんてことも、きっとあると思っていて。
人って、どんな立ち位置にいようが、当然ながら自分の考えを持っていて。「どちらでもない」ってポジションですら、それがその人の考え。たとえばイデオロギーなんかでも、リベラル色の強い人は、保守的にリベラルでいようとする。保守の色の強い人は、革新的に保守アプローチをし続けたりする。
自分も、そう。
だから食育のような感覚で、読書に関しては雑食でいたいと思っている。もちろん自分の読みたいものを中心に読むのだけど、自分とは違う意見の本を読んだり、他の方からのオススメを読んでみたり。たとえばコロナウィルスのワクチン陰謀論的な本や左翼の方達の本とかも手に取ってる。あれ?ワクチン陰謀論でいえば・・・もうそろそろ・・・身体がゾンビ化してもよいころだな・・・。
読んだ本をわざわざレビューして投稿し続けるなんて、まぁ、手間がかかる訳ですよ。別に読んだあとに脳内で思いを整理すればいい訳だし。(実際には、「思う」ことと「思ったことを書く」ことでは、得る効果は全く違うのだけどね)
「もう、やめてもいいかな?」なんて思ったりすると・・・。
「喜餅さんの書評、読んでますよ」「喜餅さんの書評を読んで、買ってみた/読んでみた」
・・・などという悪魔的囁きが起きる。上の次元でこの世をシュミレーションしてるプレーヤー達が、定期的に「囁きボタン」とか押してるのでは?と思うくらいに。まるで Facebook の農場ゲームみたいにさ。「水をやる」とか「耕す」とか「収穫する」みたいな感じで「褒める」みたいな。
嬉しくなっちゃう、なんとも易い自分がいる。
「ラジオ動画」では、「抽出力」と「話す力」を。
YouTube を始めて、そのチャンネルを伸ばしたいなら、テーマをしっかり決めて(特化して)運営した方が、いい。
そういう意味では、自覚してるのだけど、喜餅の YouTube チャンネルの運営は、完全に悪手。良い子は絶対に、マネしちゃダメだよ。
それはまた別の意図があるからあんな形にしてて。まぁ、それはまた別の機会に。
10分以上の動画になってしまうことも多いけど、なるべく10分に収めるように意識してる。
このラジオ動画では、「抽出力」と「話す力」を意識していて。
スピーチを創る時、または人のスピーチにフィードバックをする時、それだけでなく会議での発言やフィードバックを求められた時、なにか一つ、メッセージやトピック(本質といってもいいかな)を抽出して言及する力があるといいなと思っていて。
もちろん、物事はそんなにシンプルじゃない。群像劇のようなものだったら登場人物ごとに何かしら感じるものがあるはず。だから抽出する事柄は、絶対的な一つ・・・はハズは、ない。
でも、一つを選ぶの。一つに決めるの。「今回は、コレについて話す」と決めるの。
ラジオ動画の題材を選んで最初にやる作業が、「テーマを一つに決める」ということ。
そして手帳に、そのテーマに沿って、10分にまとまるように、話すことができるように、書く。シャーペンで書いてるので、書いては消し、書いては消し。
そして、録音する。
事細かに台本のように手帳に書いている訳じゃないから、多少のアドリブが入ったりする。
噛むのよね。考えが先走って、口の運動が追い付かないと、よく噛む。
あとは、どうしても地声が大きいので、できれば囁き声のような感じで収録したいと思っている。AMラジオではなく、FMラジオのような感じ。
話す内容を、毎日探さないといけない。好奇心のアンテナを掲げて、その感度も上げて。
ネタを探し、手帳に書く、録音して、噛んだり納得できなかったら録り直して、サムネつくって、動画編集して、投稿する。
動画を観る人は、こちらの(能力を伸ばしたいという)意図は関係ないから、採用されるトピックそのものに興味を示す。たとえば幸福の科学の映画を題材にしたラジオ動画などは、明らかに幸福の科学の信者さん達が聴きにきてる様子。逆に個人的には趣味の(総合)格闘技ネタには、あまり興味がない雰囲気。
2024年2月7日現在、158本のラジオ動画を投稿してる。
その手数(工数)の多さに対し、再生回数が(まぁ、喜餅っちゃんねるは再生回数低いけど!)伸びない。
「そろそろやめてもいいかな?」なんて思うことが定期的に訪れる。
やはりここでも、上の次元のプレイヤーが必死に「ボタン」を押してるのだろうなぁ。「くすぐりボタン」。
「いやいやいやいや、喜餅さん、あのラジオ動画がいいのですよ」「あのラジオ動画、ループで聴いてますよ」「1回目と最新版、声の出方が全然違いますね。やっぱりボイトレ効果、凄いですね!」
神々の遊びに、イチ庶民(ゲーム内のキャラクター)である喜餅は、こうも踊らされるのか。
「もうちょっと、続けてみようか」などと思ってしまう。
「見ているよ」は、ちゃんと言葉に出した方がよい
誤解のないように。
前述のとおり、ブクログにしてもラジオ動画にしても、それらの活動を通じて自分が伸ばしたい箇所があるから続けている。他の人達に言われたから続けてるということでは、ない。
ただ弱い自分にとって、くじけそうになることは、いくらでもあって。
ココロの中の炭火が消えそうになることがあって。新しい炭を入れて欲しい時にココロの中に在庫がないこともあって。
そんな時に「どうぞ」と、新しい炭を頂戴しているようなものなのよ。
皆さんから頂く「見てるよ」なんて言葉が、その役割を果たしていてね。
「書評を見て(本を)買ってみた」とか「ラジオ動画を聴いて(映画を)観てみた」なんて、その方に、お金を遣うという行動変化をもたらせてる訳じゃない?
そりゃ嬉しいよ。スピーチやプレゼンテーションと同じだもの。
冥利に尽きる。
別にお金までを遣って欲しいとか、そういったことではなく、「見てるよ」と言葉にしてくれる、それだけで嬉しかったりする。
人はきっと「見られている」ということで、生きていける生き物なのだ
ちょっと大袈裟かもだけどね。
「社交的なひきこもり」というキャッチフレーズを使っている喜餅だけど、やっぱり自身の存在意義を感じたいこともある訳で。
人は他者との距離感や他者との比較で、自身への自覚や認識をする、なんてこと、あるよね、きっと。時々その比較で疲れることもあるだろうけど。
「見てくれている人がいる」ということは、強力なパワーを持っていると思う。
あなたの「見ている」は、ちゃんと相手に伝えた方がいい。
でも、明らかにおべっかのような、社交辞令のような、相手に「それ、本当なの?(疑惑)」と思わせないようにしないといけない。そんなのは、逆効果。
どうすればいいのかな?
そこはちゃんと、具体的に挙げることを意識すればいいと思う。
「Thank you for ~」「I'm sorry for ~」の「~」を言う感じ。
ただ「ありがとう」「すみません」ではなく「~してくれて、ありがとう」「~したこと、ごめんなさい」にする。この「~してくれて/~したこと」をちゃんと述べる。
ちゃんと見てることに、つながる。
ここで「トーストマスターズクラブ」につなげる(笑)
もちろん実社会で「ちゃんと見てる」という意識&実践で伸ばすことはできる。
でも、よりその効果を早く期待したいなら・・・「トーストマスターズクラブ」だ!(笑)
良くも悪くも、トーストマスターズクラブでは、ひたすら同じ枠組みを続ける。
準備スピーチ・即興スピーチ・(準備スピーチへの)論評
設定された役割(司会であったりスピーカーであったり論評する人であったり)も、ローテーションでまわってくる。
同じ流れがずっと続くから、(その枠割についての)自身の過去の経験と同時に、他人がその枠割を行っている様子を目にすることで、他人の経験も吸収することができる。「人の振り見て我が振り直せ」が好意的に行われる。
・・・同じ枠組みがずっと続くということは、役割に対して慣れさえすれば、「観察力」を磨くことに脳内のメモリを使えることになる。
新しい職場に行ったりしたら、その職場のしきたりを覚えたり取引先を覚えたりその仕事そのものを覚えたりと、大変でしょう?
トーストマスターズクラブでの仕組みさえ覚えてしまえば、慣れてしまえば、あとは参加してるメンバーを観察することに注力できる。
「あの人、スマホを手に取る回数、多いなぁ」とか「おぉ、ちゃんと笑顔で聴き続けてるわこの人」とか「あれ?以前より『あー』とか、減ってるよね?」とか「見学者への挨拶、この人が一番早いんじゃない?」とか。
それを言語化して、相手に伝える。もちろん、ポジティブなことを、ね。
その究極が、クラブの会長職じゃないかなと、思ったりする。
英語落語家だから、どうしてもデリバリースキルとか(ワークショップで)リクエストされるけど、実は最も重要なのは、「観察力」からの言語化なのじゃないかなと思っている。
だってそれって、コミュニケーションにおける最重要ポイントじゃない?相手を知らないといけない訳だからさ。
・・・ということで、「観察力」を磨くために、是非、お近くのトーストマスターズクラブにお立ち寄りください(笑)
これからも継続する。あと、できれば・・・
・・・ということで、ブクログとラジオ動画、あなたのおかげで継続できてます。
もっともっと筆力・トーク力を磨いて、より面白い内容にしたいなと試行錯誤していきます。
2つのコンテンツ、可愛がってもらえたら、嬉しいです。
あっ、あと、ブクログにしてもラジオ動画にしても、「喜餅に読ませたい」「喜餅に語らせたい」ものがあれば、是非是非、リクエストください。
一つ、できればでいいのだけど・・・。
もし、「本を買おう」とかなったりしたら、是非、ブクログやラジオ動画の Amazon リンク経由で購入をしてもらえると、嬉しいです。
Amazon からちょっとだけ、お小遣いをもらえるので。そしてそれがまた新しい本や映画を楽しむ資源になるので。
自分自身も観察力をもっと磨いて、ちゃんと「見てるよ」コメントをしていかねば。
いただいた炭火は、こちらからもちゃんとお返ししないと、ね。