住吉界隈いま・むかし[29]【霰松原(現住之江区安立2丁目11番付近)】
『住吉界隈いま・むかし』は、1918(大正7)年生まれの白井伊之助さんが記憶と想像で描いた昔の「住吉界隈」(住吉区の西半分と住之江区の東半分 ※ 住之江区は1974(昭和49)年7月22日に住吉区から西部を分離して成立)と、同じ場所で撮った1980(昭和55)年(古くは明治時代)と現在の写真を見比べて移り変わりを見てみようとする企画です。
「阪神沿線×タイムスリップ写真館」を見て我が町でもやってみようと思い立ちました。
これまで28回に亘り、次のスポットの移り変わりを見てきました。
① 帝塚山古墳 (帝塚山西2-8)
② 青果市場 (上住吉2丁目16番付近)
③ 住吉座 (上住吉2丁目13番付近)
④ 墨江村大字上住吉 (上住吉1丁目付近)
⑤ 大正末期の蹄鐵工場 {万代6丁目9番(ガソリンスタンド横)}
⑥ 細江川 (細井川)
⑦ 墨江村大字遠里小野 (墨江東7丁目付近)
⑧ 墨江園 (墨江2丁目4・5番)
⑨ 止止呂支比売命神社(若松神社) (沢ノ町1丁目10番4号)
➉ 墨江村大字澤の口 (現墨江4丁目5~7番付近)
⑪ 墨江村大字殿辻 (墨江2丁目付近)
⑫ 昭和初期の墨江尋常高等小学校 (墨江2丁目3番46号)
⑬ 津守寺 (墨江2丁目3番46号)
⑭ 墨江村大字千躰 (墨江1~3丁目・千躰1・2丁目))
⑮ おいとしぼし大神 (墨江2丁目8番)
⑯ 正印殿 (墨江2丁目7番20号)
⑰ 後村上天皇行宮正印殿趾 (墨江2丁目8番)
⑱ 墨江村大字南浜口 (墨江3丁目9番・17番付近)
⑲ 昭和初期に出来た濱口市場 (墨江3丁目21番付近)
⑳ 大正時代の墨江村の風景の一部 カキ氷屋 (墨江3丁目16番)
[21] 端午の節句 (墨江3丁目15番)
[22] 墨江村大字浜口 (墨江3丁目12~15番)
[23] 墨江村大字浜口(長居公園通)
[24] 墨江村大字浜口(墨江1丁目10番)
[25] 墨江村大字浜口(墨江1丁目8番)
[26] 墨江村大字浜口(端午の日の子供)(墨江1丁目10番)
[27] 墨江村大字浜口(鮒取り)(墨江1丁目10番8号)
[28] 住吉名物難波屋の笠松(現住之江区安立1丁目1番20号付近)】
住吉界隈いま・むかしの第29弾は、霰松原(現住之江区安立2丁目11番付近)】を紹介します。『住吉いま・むかし』P.110~111からの転載です。
現住之江区安立2丁目11番付近は江戸時代中期(1700~1750年頃)まで、海岸線でした。白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるそうです。
42年前の写真と見比べると、現在は「霰松原の由来」の案内板が立てられています。
霰松原の由来の案内板です。
現在の海岸線はここから西へ8km程離れた大阪湾ですので、かって白砂青松の名勝地であったとは無く信じられません(笑)その有様は万葉集にも収録されているほどですが、江戸時代に入って大和川の付け替え工事や新田開発によって、海岸線が移動し景観が一変してしまいました。
霰打つ安良礼松原住吉の|
弟日娘女《おとひをとめ》と見れど飽かぬかも
『万葉集』巻一(六五)には、天武天皇の第4子の長皇子が、706(慶雲3)年に文武天皇の難波宮行幸に同行した折に、住吉で遊んだ時の御歌です。
「霰が吹き付けるように風が吹く霰松原を、住吉の弟日娘(住吉津に住む遊行女婦)と一緒に見ていたら、いつまでも見飽きないなあ」という意味です。
碑の前の道は大阪と河内南部や紀州方面を結ぶ重要な街道「紀州街道」です。奈良・平安時代(710~1185年)は海に沿った堺まで続く松原で、白い砂と松の緑は四季を通じで素晴らしい景観を見せ多くの人々が訪れたそうです。
石碑のある「霰松原公園」には、「霰松原神社(天水分豊浦命神社)」が祀られています。
この神社は延喜式の古社で創建年は不明ですが、『住吉大社神代記』にも記録されています。左側にある一番大きい「金高大明神」の祠には、タヌキのお地蔵様が鎮座しています!!大阪大空襲で心斎橋の焼け跡から運んできたとの言い伝えがあるそうです。
公園内には、忠魂の碑や慰霊塔もあります。
ここには1889(明治22)年~1925(大正14)年に「安立町役場」がありました。
霰松原と遠い昔ですが、注連縄が掛けられた御神木の楠木が2本祀られています。黒い石の辺りは、何かを表しているのでしょうか?