住吉界隈いま・むかし[36]【住吉神社東南細江川周辺】
『住吉界隈いま・むかし』は、1918(大正7)年生まれの白井伊之助さんが記憶と想像で描いた昔の「住吉界隈」(住吉区の西半分と住之江区の東半分 ※ 住之江区は1974(昭和49)年7月22日に住吉区から西部を分離して成立)と、同じ場所で撮った1980(昭和55)年(古くは明治時代)と現在の写真を見比べて移り変わりを見てみようとする企画です。
「阪神沿線×タイムスリップ写真館」を見て我が町でもやってみようと思い立ちました。
これまで35回に亘り、次のスポットの移り変わりを見てきました。
① 帝塚山古墳 (帝塚山西2-8)
② 青果市場 (上住吉2丁目16番付近)
③ 住吉座 (上住吉2丁目13番付近)
④ 墨江村大字上住吉 (上住吉1丁目付近)
⑤ 大正末期の蹄鐵工場 {万代6丁目9番(ガソリンスタンド横)}
⑥ 細江川 (細井川)
⑦ 墨江村大字遠里小野 (墨江東7丁目付近)
⑧ 墨江園 (墨江2丁目4・5番)
⑨ 止止呂支比売命神社(若松神社) (沢ノ町1丁目10番4号)
➉ 墨江村大字澤の口 (現墨江4丁目5~7番付近)
⑪ 墨江村大字殿辻 (墨江2丁目付近)
⑫ 昭和初期の墨江尋常高等小学校 (墨江2丁目3番46号)
⑬ 津守寺 (墨江2丁目3番46号)
⑭ 墨江村大字千躰 (墨江1~3丁目・千躰1・2丁目))
⑮ おいとしぼし大神 (墨江2丁目8番)
⑯ 正印殿 (墨江2丁目7番20号)
⑰ 後村上天皇行宮正印殿趾 (墨江2丁目8番)
⑱ 墨江村大字南浜口 (墨江3丁目9番・17番付近)
⑲ 昭和初期に出来た濱口市場 (墨江3丁目21番付近)
⑳ 大正時代の墨江村の風景の一部 カキ氷屋 (墨江3丁目16番)
[21] 端午の節句 (墨江3丁目15番)
[22] 墨江村大字浜口 (墨江3丁目12~15番)
[23] 墨江村大字浜口(長居公園通)
[24] 墨江村大字浜口(墨江1丁目10番)
[25] 墨江村大字浜口(墨江1丁目8番)
[26] 墨江村大字浜口(端午の日の子供)(墨江1丁目10番)
[27] 墨江村大字浜口(鮒取り)(墨江1丁目10番8号)
[28] 住吉名物難波屋の笠松(現住之江区安立1丁目1番20号付近)】
[29] 霰松原(現住之江区安立2丁目11番付近)
[30] 墨江村大字島(現住之江駅前通り東側:住之江区住之江2丁目)
[31] ほし店(現住吉税務署裏一面)
[32] 圓山(現社南町会)
[33] 明治・大正・昭和初期の船着き場(細江川)
[34] 浅澤神社(上住吉2丁目11番21号)
[35] 浅澤小野(上住吉2丁目11番)
住吉界隈いま・むかしの第36弾は、住吉神社東南細江川周辺(上住吉2丁目~墨江1丁目)を紹介します。『住吉いま・むかし』P.16~17からの転載です。
著者が江戸時代の1796(寛政8)年発刊の「摂津名所図会」を模写し色付けしたものです。
寛政8年が1786年となっていますが、1796年の誤りです。
明治維新後廃寺となった「慈恩寺」は、上の地図「掲載頁と所在場所」では[59]の辺りにあったと思われます。
この42年前の写真は高い所から撮った写真と思われますが、一般人が上がれる高い所が無く何処からのアングルなのかは分かりませんでした😢
そんな中、慈恩寺の痕跡を探された方の写真がありましたので⤴3年前の写真ですが見比べてみることにしました。
手前の民家は改装されたようですが、余り変わっていないようで、奥の住吉っさん(住吉大社)の木々も生い茂っていました。2つのマンホールの蓋も変わらずです。
こちらは反対側から撮った写真です。この辺りに150年ほど前まで津守家の菩提寺・慈恩寺があったとは\(◎o◎)/!
摂津名所図会にも描かれているように江戸時代、慈恩寺の「車返しの桜」は住吉の名勝の一つでした。
後醍醐天皇が南北朝時代の1337(延元2)年、住吉っさんに|行幸《ぎょうこう》の折、慈恩寺の桜が余りにも見事であったので車を引き返らせたことから、「後醍醐天皇車返しの桜」と呼ぶようになりました。
1999(平成11)年、この桜の花を偲び(財)住吉名勝保存会が、京都嵯峨の八重枝垂れ桜を住吉っさんの南東にある住吉武道館前に植樹しました。当然のことながら今年の桜の花はもう散ってしまいました。
🌸4月初旬だと満開です🌸