住吉界隈いま・むかし[39]【墨江村大字長峡(一)】
『住吉界隈いま・むかし』は、1918(大正7)年生まれの白井伊之助さんが記憶と想像で描いた昔の「住吉界隈」(住吉区の西半分と住之江区の東半分 ※ 住之江区は1974(昭和49)年7月22日に住吉区から西部を分離して成立)と、同じ場所で撮った1980(昭和55)年(古くは明治時代)と現在の写真を見比べて移り変わりを見てみようとする企画です。
「阪神沿線×タイムスリップ写真館」を見て我が町でもやってみようと思い立ちました。
これまで38回に亘り、次のスポットの移り変わりを見てきました。
① 帝塚山古墳 (帝塚山西2-8)
② 青果市場 (上住吉2丁目16番付近)
③ 住吉座 (上住吉2丁目13番付近)
④ 墨江村大字上住吉 (上住吉1丁目付近)
⑤ 大正末期の蹄鐵工場 {万代6丁目9番(ガソリンスタンド横)}
⑥ 細江川 (細井川)
⑦ 墨江村大字遠里小野 (墨江東7丁目付近)
⑧ 墨江園 (墨江2丁目4・5番)
⑨ 止止呂支比売命神社(若松神社) (沢ノ町1丁目10番4号)
➉ 墨江村大字澤の口 (現墨江4丁目5~7番付近)
⑪ 墨江村大字殿辻 (墨江2丁目付近)
⑫ 昭和初期の墨江尋常高等小学校 (墨江2丁目3番46号)
⑬ 津守寺 (墨江2丁目3番46号)
⑭ 墨江村大字千躰 (墨江1~3丁目・千躰1・2丁目))
⑮ おいとしぼし大神 (墨江2丁目8番)
⑯ 正印殿 (墨江2丁目7番20号)
⑰ 後村上天皇行宮正印殿趾 (墨江2丁目8番)
⑱ 墨江村大字南浜口 (墨江3丁目9番・17番付近)
⑲ 昭和初期に出来た濱口市場 (墨江3丁目21番付近)
⑳ 大正時代の墨江村の風景の一部 カキ氷屋 (墨江3丁目16番)
[21] 端午の節句 (墨江3丁目15番)
[22] 墨江村大字浜口 (墨江3丁目12~15番)
[23] 墨江村大字浜口(長居公園通)
[24] 墨江村大字浜口(墨江1丁目10番)
[25] 墨江村大字浜口(墨江1丁目8番)
[26] 墨江村大字浜口(端午の日の子供)(墨江1丁目10番)
[27] 墨江村大字浜口(鮒取り)(墨江1丁目10番8号)
[28] 住吉名物難波屋の笠松(現住之江区安立1丁目1番20号付近)】
[29] 霰松原(現住之江区安立2丁目11番付近)
[30] 墨江村大字島(現住之江駅前通り東側:住之江区住之江2丁目)
[31] ほし店(現住吉税務署裏一面)
[32] 圓山(現社南町会)
[33] 明治・大正・昭和初期の船着き場(細江川)
[34] 浅澤神社(上住吉2丁目11番21号)
[35] 浅澤小野(上住吉2丁目11番)
[36] 住吉神社東南細江川周辺(上住吉2丁目~墨江1丁目)
[37] 郷社生根神社(奥天神)(住吉2丁目3番15号)
[38] 明治時代の住吉警察署(東粉浜3丁目28番3号)
住吉界隈いま・むかしの第39弾は、墨江村大字長峡(一)(現長峡町2丁目・住吉大社前)を紹介します。『住吉いま・むかし』P.52~53からの転載です。
元は住吉大社(住吉神社)の境内でしたが、1871(明治4)年5月24日(水)の太政官達で有祖地に組み替えられ翌年5月に安立新田と改称。さらに1882(明治15)年5月6日(土)に長峡町と再改称され現在に至ります。
この辺りは、明治時代~大正時代は"住吉新地"(花街)として、住吉で最高に賑わっていたようです。
1885(明治18)年に阪堺鉄道(現南海電鉄)の開通に伴い住吉公園駅が設置されると、住吉っさん(住吉大社)からのメイン参道となり、東北角には「伊賀治」の料亭や、店頭で鰻を焼くお店等々があったようです。
昔と今の写真を見比べてみると、46年前には阪堺電車「住吉鳥居前」の駅舎があるように見えます。今度伯母が来たら確認してみます。その4年後にはコーヒーハウスになっています。
そして、現在は1階が薬局で、2階が占サロンとなっています。信号機も42年前の写真では縦型ですが、現在は横型になっています。
これらお店の並びを西へ少し行くと、6年前まで阪堺電車の「住吉公園駅」がありました。
日本一終電が早い駅としても有名でした⤴
電車は来なくなりましたが、今でも駅舎は残り、宝くじ店も営業しています。