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書評『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』 死の絶対的な救いようの無さとは何か

 最近、高村知也の『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』を読んだ。永井均がTwitterで称賛していたのと、筆者と同じように私も、「死をどうしても受け入れることができない」タイプの人間だったこともあり、興味が沸いて手に取ってみたのだ(しかし、筆者と違って私は、日常生活に支障をきたすほど死を真剣に恐れてはいない)。

 ある程度楽しめる内容だった、というのが率直な感想である。特に、「死」を「よく知られた、馴染みのある、安心できる、正気でいられる価値観の中に丸め込もうとする」(高村知也『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』,青土社,2022年5月,P.7 7行目〜8行目)世間の傾向にどうしても不満を感じてしまう人間のために、そうした不満を明確に言語化することに一役買っている本だとは思う。

 しかし、どうしても筆者の主張に賛同できない箇所が一つあったので、こうして書評という形で、なぜ私がそれを賛同できないのかについて、いくつか理由を書いてみようと思う。

 まず次の引用を見てほしい。

 私は、私自身がいつか死ぬと信じている。私にとって死とは、「永遠の無」である。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいい。
 肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわからない。けれども、「この私の意識」が残るようなかたちで何らかの死後生があるとは信じていない。

同上,P.30,3行目~7行目 

 これが筆者による「死」の捉え方である。このように「死」を「永遠の無」とみなす考え方が、筆者に「いつか死ぬことを」を耐え難いものにしているのだが、この点に関しては私は筆者に全面的に賛成する。

 私の意識を離れて、他人の存在や物質の存在をあたかもそれ自体で存在するかのように想定することはナンセンスだろう。仮に、意識から独立的に存在するものがあったとしても、その存在を知覚などを介して確かめる何らかの意識主体が存在しなければ、何の意味もない。そういう意味で、私の世界の存在は私の意識が構成している。そしてこの私の意識が消滅してしまえば、もはや私にとって、世界の存在は消滅する。

 そして「死」はまさに私の意識の消滅を意味する。こうした考え方に対して、「あなたが死ぬことであなたの意識が消滅しても、他の人は死なないし、他の人の意識も消滅しないのだから、世界も消滅しないではないか」といった反論は無意味である。消滅する私の意識には、「おお、こうして私が死んだ後も、私の家族の意識も、私の友人の意識も、世界そのものも、消滅せずにきちんと残っているなあ」などといった認識を持つことはあり得ないからである。よって、筆者の言う通り、確かに「死」は「永遠の無」を意味するだろう。

しかし、いや、だからこそ、私は次の箇所について筆者に賛同することができない。これが二つ目の引用である。

 存在は、神秘である。
 存在が神秘であるのは、現在においてだけではない。宇宙があって、人間がいて、そこに様々な物語があった。この過去の存在の事実は、たとえいつか生命が絶えて、この世界が無に帰したとしても、「何も存在しなかった」ことにはならない。存在は消えても、存在したという事実は無くならない。これは本当に不思議なことだ。
 ジャンケレヴィッチを引きたいと思う。

 存在した者が、いまになって、存在しなかったということはもはやできない。生きたというこの深い闇につつまれた神秘の事実は、その者にとって尽きることのない永遠の路銀なのである。
  (ジャンケレヴィッチ『死とは何か』十頁)

 この言葉は詩的に過ぎるあまり、その真理性を汲み取りにくいかもしれない。しかし、私はここに、死の恐怖に対する応答の一つの可能性があると思う。
 ある人が死んで無になっても、生きたという事実は永遠に消えない。「完全な無」にはならない。この先宇宙が消え去ったとしても、私が生きていたという事実は消えようがないのだ。これは考えれば考えるほど不思議なことである。
 これが救いになると言ってしまえば嘘になる。けれども、そこにひとつの綻びがあるのは確かだ。

同上,P.51 11行目~p.52 11行目

 ここで筆者は、「存在が消えること」と「そもそも存在しなかったこと」を区別し、「死」は「存在が消えること」だけを意味するのだから、「死」といえども「そもそも存在しなかったこと」までを引き起こすことはできないはずだ、と述べている。なるほど、直感的には筆者やジャンケレヴィッチが正しいように思われる。だが果たして本当にそうなのだろうか。

 筆者自身も一つ目の引用で述べているように、「死」は「永遠の無」を意味する。また、その「永遠の無」の中では何かを思考したり認識したりする意識主体が存在しない。しかし、意識主体が存在しない以上、その意識主体の持っていた記憶すら当然存在しないのではないだろうか。そして、記憶というものが、過去と現在を結びつけ、現在の意識に、「かつて~があった」あるいは「かつて~という状態だった」といった認識を与えていることには疑う余地が無いのではないか。

 このように、「死」が意識主体とそれが持つ記憶を消滅させる限り、「存在が消えること」は「存在したという事実」までも消すことを意味するはずである。つまり、「死」という地点においては(これがもはや「地点」と呼べるものなのかはここでは深入りできない)、「存在が消えること」と「そもそも存在しなかったこと」の区別さえも消滅するのだ。

 言い換えるなら、「存在が消えること」と「そもそも存在しなかったこと」との間にある厳然たる区別を消すという、客観的には不可能であることを可能にしてしまうのが、「死」の固有性なのである。そして、この「死」の固有性が、「死」の「絶対的な救いようの無さ」を形成していると言えるのではないか。

 私のこの批判が正しいとしよう。しかしその場合、そもそもなぜ筆者は上のような誤った結論に至ったのだろうか?私見だが、私は「視点の移動」が誤りの原因だと見ている。

 「視点の移動」の例は次のようなものである。私が他人に向かって、「死は世界の消滅を意味するので、私は死ぬのが非常に恐ろしい」と語ったとする。それに対して、その他人は「死を恐れる必要はない。あなたが死んで、あなたの意識が消滅しても、私は死なないし、私の意識も、さらには世界の存在も消滅しないのだから」と反論する。仮にこの反論で私が説得された場合、私は自分でも気付かずに「視点の移動」を行っている。

 その他人も、説得された後の私も、「死」に対して恐怖を抱かないのは、無意識にこの「視点の移動」を行っているからだ。元々の私は、私の意識が消滅した後の、世界の消滅に対する私の恐怖を語っていたはずなのに、その他人や説得させられた後の私は、なぜか、消滅する私の意識の側から離れて、消滅する私の意識を外から眺めている他人や、あるいはそれら全てを眺めている、超越的な第三者の視点へと移動して、私の死後について語っているからだ。

 (今さらだが、この私は、もはや私と表記されるべきものではなく、永井均の用いる<私>として表記されなければいけないのではないか?というのも当然ながら、「私の消滅」という言葉を使って、私は、「それぞれの個人にとって死というものは、それぞれの個人の世界の消滅を意味する」といったことを主張したいのではないからである。もし「私の消滅」が単に上のような主張だけに留まるならば、「死」は決して「絶対的な救いようの無さ」を意味しないだろう。しかし、実力不足なのでこの問題もこれ以上深堀りできない)。

 そして、そもそも筆者が「死」に対する恐怖から逃れることができないのは、筆者が上に挙げたような「視点の移動」を行わずに、忠実に「自分の視点」から自分の死を考察していたからである。しかし「自分の視点」に徹底的に忠実であるならば、「永遠の無」を引き起こす「死」の後に、「存在したという事実」だけは残っているなど言えるはずはないのではないか。「存在したという事実」を担保する者は、その場合何だというのか。意識主体とそれが持つ記憶が消滅する以上、「存在したという事実」を見届けるのは、他人や超越的な第三者の視点でしかあり得ない。しかし、他人や超越的な第三者の視点から自分の死を眺める場合、当然ながらそこにはすでに「視点の移動」が発生している。

 もし、この「視点の移動」が許されるなら、最初の例で挙げた、「自分が死んで、自分の意識が消滅しても、他人の意識や、世界そのものは消滅しないではないか」といった「視点の移動」も問題にはならないのではないか。つまり、自分の死というものは「存在消滅」ではなくなるのではないか。なぜなら、他人や超越的な第三者の視点から眺めた場合、私の死など、客観的世界におけるある一個体の意識の消滅でしかないのだから。

 筆者の本来の立場からすれば、「死」というものは「絶対的な救いようの無さ」をもたらすものであり、その救いようの無さの内には、「存在が消えること」と「そもそも存在しなかったこと」の区別までも消滅することが含まれるはずだ。この区別を「死」という地点でも保持しようとする筆者の試みは、筆者自身の本来の見解に逆らい、結果的に「死」を「肯定的な価値観へと帰着させよう」(同上,P.7,11行目)としている、と私は考える。


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