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大腸無いのに摂食障害2
こんばんは~
今日は昨日の続きから書いていきたいと思います。
高校1年生になり、私は初めてよいクラスに恵まれました。いじめや陰湿な嫌がらせをする子は一人もおらず、誰といても楽しいクラスでした。
しかし、初めて出来た友達との距離感。
嫉妬心に振り回されていました。
今まで同じクラスに何人も親しい友達がいたことがありません。
誰とも仲よくありたい。という気持ちと、
自分の願望や現実がすり合わないことが何度もありました。
また、長い入院生活から「声優」になりたいという夢を思っていたので、演劇を中心とした授業を受ける予定になっていました。
声にも特徴がありましたし、周りの方々が応援してくれたわけですよ。
親にも面と向かって、自分のやりたいことも伝えられるようになっていましたし、
夢に向かって燃えていました。
まぁ、今まで入院してきた分、やる気に満ち溢れていたのもあります。
勿論、部活も演劇部。
朝練から夜にかけて奮闘していましたが、ストマーも着けているため、なかなか思うようにいきませんでした。
演劇部なんて、表現力よりも体力作りが先でしたからねw
小腸に作ったストマーは長くて3日しか持たず、運動にかなりの制限があったのも大きかったのです。
通院もしょっちゅうでしたし、皆から浮いていました。
まるで、置いてけぼりをくらったよう……。
毎日焦っていました。
それもあって、私は初っぱなから頑張りすぎてしまったのです。
退院してから暫くは、食べた分のカロリーを減らそうと、こっそり運動をしていました。
体重が減りすぎて、病院に行く前に水をかぶ飲みしてました。
しかし、だんだん運動が面倒になってしまったわけですね。
最終的に入院中も食べることが楽しみになっていましたし、痩せていたのでいくら食べても「まだ、大丈夫」と安心感があったわけです。
それがいけませんでした。
半年で20キロくらい、太ってしまったわけですねw
むしろ、それ以上。70キロ台までいきました。
定期を手に入れたおかげで、大きなスーパーにも一人でいけるようになり、安くて大きなものを沢山買いました。
例えば食パン一斤98円とか、クッキーの詰め合わせ。せんべい、おにぎり、スパゲティー。アイス1箱。スナック系。
お金は?と思うでしょうw
実は食べること以外趣味がないもので、お小遣いやお年玉を散々溜め込んでいたわけですよ。
節約もある意味考えものです笑
ですから、教科書を持ち帰る代わりに、スーパーで買い込んだ食料を持ち帰りました。
ゴミは臭いが漏れないようにビニールで固く絞り、机の下にこっそり隠しては捨てていました。
まぁ、いくら隠しているつもりでも、太っていくのは隠しようもありません。
家族も分かっていたと思います。
ですが、問題は過食症に限らず。体の面でも勃発します。
体型が変わったせいで、ストマーに限界が来て、作り直さなければいけないほど、酷い状態になってしまったわけです。
また、悪夢の到来です。
外科の先生にはめちゃくちゃ怒られました。
既に一度失敗して、二回目のストマーです。
三回目となると、更に難しく。
脂肪は吸収しても、治癒する大事な栄養は吸収してくれません。
結局、ストマーを作り直しても、傷の治りが悪く。
夏から秋になっても退院出来ず、1年から単位ギリギリとなってしまいました。
私はボロボロでした。
太りすぎて、痩せたときの原型は保っておらず。見る影もありません。
殆んど入院と通院で学校にもいけず、がんの人が飲む強烈な痛み止めを飲んで学校に行っていました。
私は学校に通うこと自体、限界を感じて通信の高校に行きたいと思いました。
ですが、父が許さず。
県外の病院から高校まで高速で、毎日一時間半の通勤をしました。
帰りは二時間かけて、高校から病院に一人で帰ります。
もう、強行軍ですね笑
今考えてもありえない行動です。
父はこれからの私の人生を思って、朝の往復をしてくれたのだろうと思いますが、当時は凄く嫌でしたし。もう、どうにでもなれ。と考えること自体放棄してました。
むしろ、私の意見など聞いてくれない。とさえ、怒っていましたねw
そんなこんなで、私は部活を辞めました。
これ以上惨めな自分に耐えきれなかったこと。こんな体では声優など、夢のまた夢。
頑張ることがもう出来なくなってしまったのです。
過食のように、一度食べると決めたらとことん食べる。食べないときは食べない。と決めるのと同じく。
私の考え方は白か黒でした。
授業も演劇科から外れ、普通科に変更。
授業選択は一番楽な授業ばかり選んで、楽な道を選んでしまいました。
全てどうでもよくなって、やけを起こしていたのです。
あんなに頑張ったのに。壊したのは自分なのに、コントロール出来ないせいで。
欲に突っ走ったせいで、全て失いました。
焼け石に水のように、過食症は悪化して、死にたくなりました。
どうしても我慢出来ない自分が許せなくて攻めました。
心療内科に行って精神安定剤を貰って飲んでも落ち着かず、学校に通うのも困難。
電車に乗ればバクバク心臓がなって、学校に行くのもしんどくなりました。
台風なのに、海にも行きましたが飛び込めず、帰ってきました。
雨に打たれて帰って、教科書をびしょびしょにしても親は怒らず。ドライヤーで乾かした記憶もあります。
また、親への反抗から。朝方、家を抜け出して遠くへ家出。
知り合いの神社に2週間ほど行ったこともあれば、病院まで家出したこともあります。
病院の先生や親には本当にご迷惑をお掛けしました。
また、首も吊ろうとしました。
柱に紐を通して引っかける輪っかを作り、椅子に乗って首を掛けるまでいきました。
ですが、誰もいないはずなのに、物が割れる大きな音がして、正気に戻ってやめたのです。
てっきり両親が帰ってきたのかと思って止めたのですが、誰もおらず。コップの1つも割れていませんでしたw
今考えても不思議な体験です。
ですが、私は精神的、肉体的に限界で。どうしようもなかったのです。
私はもがいていました。
学校は友達がいても、夢を捨てた場所、居場所だと思えず。
拒食症の原因や小学校で目が見えなくなった原因も、結局両親のせいだと分かってしまったこともあり、家も居場所じゃありませんでした。
むしろ、小学校でいじめにあった時より、しんどく思いました。
親は私の人生を苦しめる。
一緒にいる限り幸せになれないと、両親のせいにして反発していました。
分かってもらえない。この気持ちをどう処理したらよいか分からない。
今まで怒ったり、八つ当たりしたことがなかった分。荒れ狂ったわけです。
だから、過食しないとやっていられない。生きていけなかったのです。
友達も先生も、今の私を理解してなんかくれない。でも、誰も助けてくれない。
体の傷と違って、心の傷は誰も治してなんかくれません。
最終的に理解してくれたのは自分でした。
死ねないなら、生きていくしかない。
なんでもいい。代わりになる夢を適当に考えました。
自分の経験が生かせる仕事がいい。
私がこんな体でも出来る仕事はなんだろうと、考え。病棟保育士を目指すことにしました。
ですが、あくまで「仕方なく」決めたことでした。
回りから聞かれれば返しやすい答え。的なものでした。
張りぼてな夢に、後からそれで良かったのか悩まされるわけですが、結構大事なことなんですよね。これが……。
生きるための、思い込みってやつです。
そして、過食する自分を認めつつ。ストマーを取り外す手術を目標にダイエットを始めました。
今までの元凶は、やはりストマーが大きかったからです。
勿論、最初は外科の先生。親にも大反対されました。
将来見越しても、いずれストマーに戻る確率が高く。結果今のままが楽になるのではないか、ということ。
ストマーを外しても、普通の人と同じ状態になれる確率は殆んどなく。
失敗すれば、オムツの生活になると脅されました。
ですが、今以上に辛い生活はない。と言い張り、何が何でも外したいと声をあげ続け。
先生や親も根負けさせました。
因みに、仮の夢も使わせて貰いました笑
そして、高校3年生。
単位を逆算し、許される限り休みを使って手術することになりました。
その手術は賭け。
今まで実例のない手術で、赤ちゃんに施す手術を19になる私にしてみる方向になりました。
その条件としては、20キロ落とすこと。ダイエットが絶対条件でした。
私は過食症と格闘しながら1年半かけて少しずつダイエットに成功。
内容としては、どうしても食べたくなったらお煎餅一袋。
骨盤ダイエットに、wiiフィットを毎日続け、健康的に痩せました。また、飲食店でアルバイトをし、汗を流したのも大きかったですね。
精神面を支えるため。学校に来るスクールカウンセラーと保健室の先生。病院のカウンセラーの先生に話を聞いて貰ってました✨
3又ですね w
そうこうして、見事条件をクリアすることが出来、手術に挑むことが出来ました。
結果はまた明日、続きで書いていこうと思います。