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韓国と日本出張で感じたこと(もう闇と罪を言い訳にしたくない)

6都市2週間強の韓国と日本への出張を終え、カリフォルニアに戻った。華やかな大都会ソウル、山々の緑が美しい釜山、韓国のハワイ(沖縄?)済州島、老母との岡山での時間、親友や先輩と話した東京、建長寺で志を確認した鎌倉。たくさんの異なる景色を見て、百人を超える人たちと出会い、いろんな経験をさせていただき、さて今私の中に残っているのは何か、かなり無理矢理だがまとめてみよう。
無理矢理といったものの、一貫して一筋の糸のように繋がった気づきもある。それは人間として生きていくとは、あらゆる意味でかならず汚れや罪をまといながら生きているという当たり前の事実だった。「泥に咲く蓮の花」という仏教的表現もあるが、今回はその意義を様々な形で目の当たりにした。

まず韓国へはジョアン・ハリファックス老師の付き人として韓国仏教最大の宗派、曹渓宗の一大イベントへ。老師に加え、トゥプテン・ジンパ博士(仏教学、ダライ・ラマの通訳としても有名)や仏教界の若きリーダーの方達も登壇者として各国から招かれた。招いていただきながら、無礼極まりないが、こういうヒエラルキーと権威の匂いがぷんぷんする場は実は好きじゃない。と思ったらそれは老師も同じだそうだ。でも、ハリファックス老師は登壇者の中で唯一の女性(これもいかがなものかと思うが)でありギリギリまで考えて最後は直感で、今回をアジアへの訪問最後とすることを決められた。だったら私も行くしかない。

5日間にわたって行われる様々なイベントには、韓国一の目抜き通りで行われた4万人(!)近い参加者を集めた式典の後、学校やお寺での講演会、瞑想に関するシンポジウムなど、盛りだくさんのスケジュールで曹渓宗の意気込みが伺える。私はといえば、この盛大なイベントと人間模様を柱に隠れながら「家政婦は見た」、いやキミコは見た。
案の定、宗派のトップはスポットライトが当たる場面以外はそこにいない。招聘された老師やジンパ博士の素晴らしい講演中も彼の席は空いたままだ。そしてお茶や料理の準備に忙しく立ち回るのは女性のみで、「あーだから仏教は好きじゃなかったんだなぁ」と思い出す。(招待されながら本当に無礼でごめんなさい。)

でも、出会った個々の僧侶の方々にはきらりと光る方も多かった。
韓国のシステムはよくわからないが、たまたまかもしれないけど話した僧侶全員が、実家がお寺ではないのに自分の生きる道として仏道を選んだ人ばかりだった。曹渓宗はものすごいスピードで五体投地(全身を床に投げ出して仏を敬い立ち上がる)を108回もやったり、朝は4時からかなり身体的にも精神的にも厳しい修行で知られるので、生半可な気持ちで出家はできない。なのにそういった修行に加えて、自らリーダーシップをとって様々な意義あるプロジェクトをやっている方達も多い。
例えば、韓国初の仏教ホスピスをたった一人で始めた尼僧、世界中の若者がソウルで修行を経験しながら滞在できる65室のゲストハウスを運営する若い僧侶、地域の学校や病院で瞑想を教える尼僧など。いずれも宗派のサポートは特になく、自分で経営、集客なども切り盛りしている。

特に心に残ったのが、ホスピスを運営されている尼僧のNeunghaeng師だ。ウィキペディアにも載っていない、ググっても出てこない、でも30年ホスピスに関わり、死にゆく患者の方達に懇願されて自らホスピスを立ち上げ運営している方だ。サンフランシスコでもかつて有名な禅ホスピスがかつてあったが、資金繰りに何より苦労されたと共同創設者のフランク・オスタセスキさんから伺ったことがある。そんな苦労を含めて、大きな大きな慈悲心と勇気がなければやっていけない尊い仕事だ。
釜山での老師の講演会に現れたNeunghaeng師は、周囲の僧侶やサポーターの方から一目置かれているのは私の目でもわかる。しかしその表情は背負っている重責のためか明るくはない、けど!お肌ぴっかぴかで内側から輝いている。なんと不謹慎な、と自分でも恥ずかしく思ったのだが、輝いて見えたのは彼女の深い慈悲と存在感か。そんな彼女は韓国仏教の一つの灯火(ともしび)を表しているかのようだった。

仏教ホスピスを運営する尼僧のNeunghaeng師

そして韓国で未だチラホラ感じるのが日本軍の罪の跡だ。バリケードで守られた慰安婦の像、ガイドの方から聞いた、済州島を焦土にして飢餓を起こしたこと、韓国人の日本への強制移住など日本人として心が痛むばかりだ。償いはできるのか?答えは私にはないけれど、償わずに済むことではなく、私もその罪の一部だと思う。この問いは個人的に持ち続けていくだろう。

実家の岡山ではずっと89歳の母の具合がすぐれず、看病したり病院に連れて行ったり。苦しげな母はとても可哀想だったが、女手一つで私と兄を育ててくれたその背中をさすったり、世話ができることにありがたさが込み上げる。再び生老病死の闇の中にも一筋の光を感じる時だった。

そして鎌倉のZEN2.0で円覚寺管長、横田南嶺老師に質問をさせていただく。

企業や組織の中にあって、自分の価値観と合わないようなことや倫理にそぐわないことも仕事として与えられるかもしれない。それでも仕事に心を注ぐことで人格は磨かれるのでしょうか?

それに対して、横田老師は決意とも思える力強さを持って答えてくれた。

どんな組織も、企業はもちろんお寺でさえ、ドロドロしたところはいくらでもあります。そんな中でどう自分を保ち貫くか。そのために私たちは坐禅をします。坐禅によって大地とつながる。ビルの中にいても宙に浮いているビルなんてない。大地と繋がっているのです。そのことを忘れちゃあならん。

ZEN2.0建長寺での横田南嶺老師

罪や闇について、それは無条件に人のいる場にはあり続ける。それに対して目を逸らすな。人のせいにするな。組織のせいにするな。姿勢を正して闇の中から立ち上がれ。そうおっしゃっていると受け止めた。
最後に少し論点は偏るが、敗戦の翌年に映画監督の伊丹万作が言った言葉で締めくくりたい。

私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

自分の内面、組織、社会があるところ、罪や闇は避け難い。でもそれを見つめることなく、言い訳に甘んじていないだろうか。少しでも目を覚まし姿勢を正してまた進んでいきたい。
生きるということは否応なく罪や闇を創り出してしまうものだけど、それでも少しでも自分の良心に沿って責任を持って生きた方が幸せに違いないから。


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