宮台の共同体論②
※宮台の共同体論①のつづきです。
〇はじめに
前回では、社会の変化=共同体空洞化と、人の変化=〈感情の劣化〉についての診断を行った。
問題の把握を行った後に来るのは、「ではどうすればよいのか」という問いである。この「宮台の共同体論」ではその処方箋を最後に示したい。
だがその前に、処方箋を提示するためにはその指針となる理想の社会、目指すべき社会についての議論が必要となる。
今回はそこから始めていきたい。
3 理想の社会=〈妥当な民主制〉、適切な市場原理、〈大きな社会〉
宮台はまずジャン=ジャック・ルソーの思想を紹介する。ルソーが理想としたのは直接民主制の社会、つまり「みんながみんなを統治する社会」である。そしてその実現のために必要となるのが「個人が、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考える」という感情的能力(=ピティエ)であるとする。
続けてアダム・スミスの『道徳感情論』についても触れる。いわく、「市場が社会を台なしにしない範囲で自動調整機能を示すには、市場参加者が『他人の苦しみや悲しみを、自分の苦しみや悲しみのように感じる』同感能力を持つことが不可欠」である。
ここで宮台は、近代社会の理想像を、人々のピティエや同感能力を前提とした「みんながみんなを統治する社会」(=直接民主制の社会)、市場原理が適切に働く社会と捉えている。
上記の社会像を前提に据え、宮台はさらに前提を掘り下げていく。民主制の社会や適切な市場原理の前提となる「感情的能力」(=ピティエ、同感能力)、その前提として何が必要かである。
宮台は丸山眞男の議論を参照する。トクヴィル主義の影響を受けた丸山は、〈妥当な民主制〉 は〈自立した個人〉を必要とし、〈自立した個人〉は〈自立した共同体〉を必要とすると言う。
なぜなら、個人は〈自立した共同体〉に包摂されなければ、不安や鬱屈に苛まれることになるからである(たとえば、共同体に包摂されない個人は失業・貧困などによってひとたび〈システム〉からはじき出されればたちまち食うに困るという不安を抱える)。
また、共同体に包摂されることでメディア情報の弾丸的直撃(真に受けすぎること)を回避し、集団内のオピニオンリーダーの下で熟議に参加したうえで民主政治(投票など)に乗り出すことが可能となる。この経路を遮断された人=〈剥き出しの個人〉は、情報を妥当に解釈できずにポピュリスティックな動員の標的となってしまう。
このように宮台は、丸山の図式を用いて、あるべき社会に向けた〈自立した共同体〉の重要性を強調している。これは宮台も参照するギデンズの第三の道=社会投資国家と同じ思考である。第三の道も、自治的共同体が破壊されないように国家が政策によって補う(社会に投資する)ことを主張する。〈妥当な民主制〉の前提である〈自立した個人〉の前提である〈自立した共同体〉を守ることを強調する宮台は、第三の道をも肯定する。
〈自立した共同体〉を維持するための具体的な運動として、宮台はスローフード運動について触れている。日本では有機野菜やトレーサビリティの重視のことだと誤解されがちなスローフード運動だが、その本質は「顔が見えない範囲に便利をもたらす〈システム〉から、顔の見える範囲に絆をもたらす〈生活世界〉を護持する」ことであるとし、共同体を保持しようとするヨーロッパ的アプローチの象徴として紹介している。さらに言えばこの運動の目的は、「顔が見える範囲に向けて作り、顔が見える範囲に売り、顔が見える範囲から買う」という近接性によって、〈良きことに向かう内発的な動機〉を回復することであるとする。これはそのまま、「共同体の保持による感情的能力の回復」と言い換えることが可能である。
※〈妥当な民主制〉について補足する。民主主義の中軸は自治(自分たちのことは自分たちで決める)である。自治の中軸は〈参加〉と〈包摂〉(オーナーシップと仲間意識)である。オーナーシップと仲間意識の獲得には熟議が不可欠である。「任せて文句垂れる」のではなく「引き受けて考える」姿勢が民主主義を担う個人のあるべき姿である。その姿勢によって熟議へと〈参加〉することで不完全情報の〈繭〉(思い込み)をやぶり、共同体成員との交流を通じて〈分断〉を破って〈包摂〉(カテゴリーを超えた仲間意識)へと至ることが重要である。そのためには人々をどのように熟議へと誘うかが問題となるが、その処方箋については第5節で議論する。
4 困難=共同体空洞化⇄〈感情の劣化〉、自治マインドの不在、〈心の習慣〉
処方箋の提示の前に、問題解決に立ちふさがる困難を確認しておく。
ここまで、〈妥当な民主制〉、「大きな社会」に向かうには〈自立した個人〉を育む〈自立した共同体〉が不可欠であることを確認した。しかし、上述した社会と人の変化によって現代では共同体が存在せず人々の〈感情の劣化〉が進行している。さらには、「共同体空洞化→〈感情の劣化〉→共同体空洞化→・・・という循環構造」があると示した通り、この「鶏と卵」問題が理由となって、日本全体のマクロな救済は短期的にはほぼ不可能な状況にある。これが第一の困難だ。
また、一度〈システム〉の全域化=〈生活世界〉空洞化を経由した私たちは、あるべき〈生活世界〉を恣意的にしか選択しえない。つまり、〈生活世界〉の再構築は人工的になされるしかなく、再構築したとしても「本当にこれがあるべき〈生活世界〉なのか」という疑問が避けられないのである。このことは、いくら理想的な〈生活世界〉を再構築しようとも常にその妥当性が問い直され続けるということであり、絶えざる批判に耐えながらソーシャルデザインをし続けなければならないという困難である。
日本的問題はさらに深刻である。スローフード運動をはじめとして国家から自立した共同体の保持が規範として残ってきた欧州と違い、日本には〈依存的な共同体〉(注1)が溢れ、自治マインドを持たない〈依存的な個人〉が量産されている。つまり、共同体再構築のために、欧州では「自治マインドの存在を前提に共同体自治を支援する」政策が可能なのに対し、日本では「自治マインドの不在を前提にその涵養から始める」政策が必要なのである。
さらに宮台はより深層の〈心の習慣〉(=エートス)問題にも言及する。日本人には「皆が前提とするはずだと皆が思う事柄」には抗えない〈心の習慣〉―空気の支配―があるとし、この〈心の習慣〉が共同体自治を不可能にするような国家の仕組(注2)を上から実装させてきた、その歴史ゆえの「〈心の習慣〉と〈社会構造〉の緊密な定常ループ」という問題もあるという。
5 処方箋=感情教育―体験デザイン―熟議―ファシリテーター
最後に、理想の社会の実現に向けた、そのために不可欠なものとしての共同体の再構築に向けた処方箋について議論する。
宮台は共同体再構築に向けて、当初は住民投票制度を通じた熟議を、近年では食とエネルギーをテーマとしたミクロな人間関係の再構築をその方途として示している。
丸山のいう[依存的な共同体⇒依存的な個人⇒デタラメな民主制]という図式を打破するために、〈自立した共同体〉における〈参加〉と〈包摂〉の経験を通じた自治マインドの回復が不可欠である。自治マインドの不在⇔〈依存的な共同体〉という定常ループがあるがゆえに、取り得る方策は「パターナリスティックなソーシャルデザイン」とならざるを得ない。それはつまるところ、「何も知らない民衆に、よくわかっている我々が自治の仕方を教えてあげる、そのための仕組みを作ってあげる」という形である。これを宮台は「ファシズムも顔負けの、強力なパターナリズム」と皮肉るが、これ以外に方法はないと考えている。
〈感情の劣化〉問題への対処についても同様である。宮台はパーソンズの「内発性を非自然的に人に埋め込むしかない」という感情教育の考え方を肯定的に紹介している。宮台のよく使用する「体験のデザイン」(注3)という言葉も、自治、〈参加〉と〈包摂〉、仲間意識の獲得に向けて必要な体験をパターナリスティックに提供することを含意する。
その際に重要となるのがファシリテーター、「2階(半地下)の卓越者」の存在だという。正しい意見を伝えるだけの「1階の卓越者(従来のエリート)」ではなく、人々のコミュニケーションと場をデザインして集団的極端化を回避し、参加者たちに仲間意識が生じるように努めることが「2階の卓越者(新しいエリート)」の役割であるとする。
より具体的な方策について示す。処方箋としての問題は、いかに人々を熟議へと誘うか、熟議の場でいかに〈参加〉と〈包摂〉を経験させるか、共同体自治にかかわってもらうか、仲間意識を持ってもらうか、そしていかに〈感情的劣化〉を排するか、である。
熟議への参加を促すために、宮台は住民投票制度の導入を提案する。市区町村レベルの地域における意思決定の場に、いわば強制的に参入し議論する場を提供しようとする。この強制的な制度の設計こそ「パターナリスティックなソーシャルデザイン」の代表である。
熟議へと参加することで、共同体空洞化によって分断されていた世代間、民族間の交流がなされ、「話してみたらおもっていたのと違った」という気づきを得ることで、ステレオタイプ的な分断を排し、〈包摂〉(カテゴリーを超えた仲間意識)を経験する。また、議論への〈参加〉は不完全情報下の〈フィクションの繭〉を破ることで〈剥き出しの個人〉問題を回避することや、自分たちのことを自分たちで決める経験によってオーナーシップを獲得することにもつながる。これを通じて自治の仕方を学び、自治マインドの回復を促す。
また、熟議の経験を重ねることは日本的な〈空気に縛られる作法〉から〈理性を尊重する作法〉 へのシフトを可能にする。これは〈依存的な共同体〉から〈自立した共同体〉となるために不可欠な構えの変更である。
熟議がこの期待通りの役割を果たすには、ファシリテーター=「2階(半地下)の卓越者」の存在が重要となる。宮台はサンスティーンの議論を参照し、「不完全情報下での集団的極端化」に注意を払う。情報が不足している状態で熟議を行っても、「声のでかい」人間に議論が引きずられてむしろ極端な結論を出してしまうというのが集団的極端化である。そこで、熟議を有効なものとするには、参加者の話をよく聞き、発言者が偏らないように座回しをし、極端な意見に対しては客観的なデータを示してけん制し、なおかつ参加者たちにオーナーシップや仲間意識が生じるように縁の下の力持ちに徹する、そんなファシリテーションを実行できる「2階の卓越者」が必要なのである。
近年では宮台は、食とエネルギーの共同体自治を方策の一つとして示している。これは人々を自治へと誘う、住民投票制度を通じた熟議参加とは別の方策である。食やエネルギーは人々にとって身近な、「自分事」としてひきつけやすいテーマである。食に関してなら、スローフード的な理念と同様、「仲間のために良いものを作る、それを知っているから少し高くても買う」という近接性を通じた仲間意識の醸成が可能である。そのような近接的な関係から「気にかかる仲間」を増やし、その同心円的な想像力の働きの延長線上で、「全体についての意識」(より広い範囲の自治マインド)を獲得していくことを期待している。
〇おわりに(雑感。読まなくてもいいです。)
共同体が失われたことによって生じてきた問題(感情の劣化など)に対して、ならば従来の共同体と機能的に等価の「新しい共同体」を作れ、というのが宮台の処方箋だと言ってよい。
だがそこには、第4節に書いたような数多の困難が立ちふさがっている。処方箋としての熟議、ファシリテーター、食とエネルギーの共同体自治は理解できるとしても、実際にどのように手を動かしてよいかイメージできないでいる。
宮台はより最近、恋愛・性愛について語ることが多い。共同体=ホームベースを作るためには、感情的能力の獲得が必要で、それには「〈社会の外〉でのシンクロ」の経験が必要だ。そしてそれを得られるのは祝祭と性愛である、と論じている。
(季刊エスの連載「性愛に踏み出せない女の子のために」にはそのあたりのことが非常に分厚く記述されている。すべて読もうとすると長いけれど、ぜひ読んでほしい。)
僕は自分が性愛ワークショップをできるような人間ではないが、宮台の言う「〈社会の外〉でのシンクロ」という機能に注目するならば、その観点を出発点にしてコミュニティづくりを考えていけるはずだ。
[注釈]
(注1) 宮台が言及している〈依存的な共同体〉の典型的なイメージは、役所の指示・決定に依存して自分たちで考えて決めることのない町会・自治会的な組織のことだと考えられる。
(注2) 上記(注1)の延長線上に、周りの意見を気にして役所の決定に異論を唱えられない町会の成員、同じように県の決定に異論を唱えられない市役所の役人、国の決定に逆らえない県の役人がいる。このように、周りの空気を気にするがゆえに自治が起動しないという習慣がわれわれ日本人にはある。
(注3) 宮台は「体験」を、本稿の文脈で言えば地域の仲間や家族と一緒に興奮や祝祭を味わったりすることで共通前提を作ったり、人々の価値観を変容させ得るようなものとして用いている。「〈社会の外〉でのシンクロ」といった言葉とも重なるもので、言語的なものを超えた「体験」というニュアンスが含まれる。
[主な参考資料]
『経営リーダーのための社会システム論』
『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』