#2 祖母の死 / 中3
祖母は乳がんでした。再発し、余命が短いことを知った時は、膝から崩れ落ちました。私はおばあちゃんっ子だったからです。
それなのに、祖母に暴言を吐いてしまいました。
中3の夏。
受験勉強に身が入らず、寝転がってテレビばかり見ていました。両親は呆れ、放置していましたが、祖母は違いました。何度も「勉強しなさい」と言い、私が起き上がらないとテレビを消し、「これだから、あんたは」と説教されました。
頭にきた私は、「うるせえ、ばばあ」「私の人生だから、勝手に口出しするなよ」「〇ね」と最低な言葉を吐きました。それでも、祖母は私に勉強するように何度も声をかけました。
季節が冬に移ると、祖母は、入院生活になりました。中1、小5の妹は、母とよく見舞いに行きましたが、私は塾があり、なかなか足を運ぶことができませんでした。一人で行かないようにと言われていたのもあります。
ある塾の帰り、一人で病院に行きました。塾から病院は自転車で5分ぐらいでした。しばらく祖母に会えていなく、どんな話をしようか楽しみに病室の扉を開けると、そこにはたくさんの管に繋がった祖母がいました。髪が抜け落ち、やせ細り、私が知っている祖母ではありませんでした。
病室に入ることができず、泣きながら家に帰りました。「おばあちゃん死んじゃうかも」と子供ながらに感じました。
翌日から、可能な限り、学校や塾の帰りに祖母に会いに行きました。祖母を楽しませようと、その日あったことを面白おかしく話したのを覚えています。
2月。塾をズル休みすることが多くなり、病院に行く頻度が減りました。模試の結果が悪く、仲のいい友達と教室が離れてしまい、お弁当を食べる人がいなくなってしまったからです。ぼっちが嫌でした。
しかし、この選択が私を後悔させるのです。
数日後、祖母は息を引き取りました。夜中に亡くなったため、翌朝、起きると母から「おばあちゃんが亡くなった」ことを知らされました。声をあげて泣きました。
病院から祖母が帰ってくると、祖母に向かって謝り続けました。一方通行で会話が成り立たなくても、ひたすら声をかけました。
暴言を吐いてごめん。
言うことを聞かなくてごめん。
病院に行けなくてごめん。
病室で見た時より、祖母は痩せこけていました。抗がん剤の副作用で体中が痛かったと思います。それなのに、私がお見舞いに行くと辛い顔を見せず、笑って迎えてくれていました。
祖母が亡くなったのは、いとこの誕生日の翌日でした。同じ日にならないように生き抜いてくれたのかな。いろいろな思い出がありますが、祖母の布団で一緒に寝たのが毎日の楽しみでした。
おばあちゃん、ありがとう。
将来の夢。
祖母の病気がきっかけで、私は、テレビマンになりたいと思うようになりました。病院での祖母の娯楽はテレビでした。しかし、テレビをつけても深夜帯?面白い番組がやっていないと嘆いていました。ふっと笑ってしまう、元気が出る番組を作りたいと思ったのです。
また、私自身、テレビに救われた過去があります。中1の時、いじめに遭っていました。テレビを見ている時間は無邪気に笑うことができ、学校の出来事を忘れさせてくれるぐらいでした。
祖母を前に、将来は、テレビ局に就職すると誓ったのです。