『自分らしい幸せ』ってなんだろう。自己紹介?を兼ねて
改まって自己紹介をするつもりはなかったけれど、ぼかしつつ述べてみよう。自己紹介というよりは今までの人生を語ってる。かなり長い記事だよ。読むのをやめようと思えるくらいに。笑
読んでほしいけど読んでほしくないとも思う複雑な心境なの。
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私自身は「治らない/治せない」と言われている幾つかの疾患や症状を抱えて生きている。
「医学は発展している」と思ってはみても、医師が治したくても治らないものは治せない。
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「治せない」の言葉を初めて聞かされたのは25歳の春だった。
私
「治して!」
Dr.
「治せない!!」
言葉の応酬が続いた。
「治そうと手術したら死ぬ」とまで言われた。
それでも得心がいかなかった。
最終的にリアルな動画を見ながらの詳細な説明を聞き……納得せざるを得なくて心が折れた。
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ことの始まりは20歳目前の19歳。
謎の腹痛が起きた。
今でもその謎の腹痛は続いているが、それはまぁ置いといても、あの病気、この病気と、次々といろいろな病気に罹り、入院と手術を繰り返した。
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(小学生だった当時には病名が付いていない症状があって、のちに重症化。人は誰でもこんな症状が起きるものだと勝手に思い込み、親にも相談しなかった)
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よく思った。
「なんで私?」
「私が何か悪いことをした?」
「どうしてこんな思いをしなくちゃならないの?」
心を痛めた悩みは途絶えることを知らなかった。
つらい症状に苦しみ病院へ駆け込む日々。
「一生こんな体で生きていかないとダメなのか」そう思うことは多々あった。
「涙は枯れることを知らないのか」と思う日が続く時もあった。
「いつかこの体を治せる日がやってくるのだろうか」そんな淡い期待を抱く日もあった。
しかし現実は過酷なもので、症状の重さに波があるものの、苦痛はお構いなしにやってくる。
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20歳頃からの症状が出るよりずっと以前。
小学生低学年の頃(幼稚園児の頃だったかも)から両親に対し反感と喪失感を持っていて、それでも世間一般・大多数の人から見ても真っ当な自分なりの正義を貫こうとして、同級生や教師からもいじめられるようになり「死にたい」とよく思っていた。若くして胃潰瘍にもなったし。
中学生だったかの時には【いのちの電話】と呼ばれている機関に電話したこともあった。
死にたがりの人間が考えるにはおかしな話かもだけど、根は陽気なのかもしれない?
今で言うなら半ネグレクトみたいな家庭でDVもあったら、否応なしに我慢を覚える。
ひたすら耐える。
自分の気持ちを押し殺すのだ。
よく言うじゃない?
「顔で笑って心で泣いて」って。
小学生の頃から人前では笑顔で過ごすことの方が断然多かった。
そのように『耐える』ということを、気持ちだけでなく体の症状に対しても起きるようになっていった。何があってもとことんまで耐える。熱が出ても痛みがあっても、とにかく限界まで耐える。
耐えることが美徳だなんて考えてもいない。
ただ少し言い方を変えれば『我慢強い』。
良いことなのか悪いことなのかは置いておく。
医者には「なぜもっと早く来なかった」「なぜ救急車を呼ばなかった」との言葉を吐かせてしまったから。
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ともかく。
死にたがりの人間が、治らない病気・症状を抱えたら、死にたい思いが増すばかりだった。
死にたければ死ねばいい。
そう思うのは簡単だ。
けどそれを実行に移すとなると、それなりに勇気も必要だったりする。死ぬための勇気ってなんだ?と思えてしまう。
正直なところ、過去に何度か自傷をしている。
死にたい思いにも波があり、常に底辺にその思いがあって、その思いが高まると危ういことをする。
発作的。
ハッと気付けば自分を・・・ということもあった。
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その思いが少しほぐれる出来事があった。病院のベンチで泣いていた時に、何らかの縁で通りがかった名も知らぬ看護師さんと出会った。
泣いている理由を問われた。
正直に話した。
今の体の状態で生きていくことがつらいと。
看護師さんは、ずっと黙って私の話を聞いてくれた。まるで頼り甲斐のある精神科の医師や心理カウンセラーのように。
私が話し終えると、話の内容に同意の意を示し、その上で、疾患を抱えている体への向き合い方や、病気との共生について話してくれた。
話を聞き終える頃には、流れていた大粒の涙は止まっていた。
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人生100年時代かもしれない。
そう考えると、生きてきた人生よりこれから先の人生の方が長いと考えられる年齢だったあの頃。
体とうまく付き合えなければ、今後の人生はただひたすらにつらいだけのものとなる。そんなのは嫌だ。
泣きたい時は泣けば良いのだが、鬱屈した思いを噛み殺す癖のようなものが付いているから、普段は容易には泣けないのだ。たとえ一人の時でも。
症状が重くなれば病院へ通ったり自宅で寝込む日々も来るが、看護師さんの言葉を胸に体の症状がほぼほぼ落ち着いている時には人生を楽しんだ。
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今から思えば、若いうちにやりたいことをやれて良かったと思える。
理由は、更に治らない病気が増えていったから。
別に悲しくはなかった。
心が痛むこともなかった。
ただ「またか」とその都度思った。
自分の体を思い通りに動かすことさえできない時もあった。
そこから何がどうなって体の状態が少し良くなり、どうにか一定のレベルで安定したのかは未だに自分でも分からない。
念のために言っておくと、心の持ちようからくる疾患ではない。そこは精神科医が診断してはっきりと断言している。
精神科医に診てもらった理由は、ある症状を特定するために精神科系の疾患を除外する必要があったから。
『精神疾患はありません』の診断書が必要だったのに、Dr.が「病気がないのに診断書は書けない」と言われてしまい困ったことにもなったのは、振り返れば良き思い出だ。
至極真っ当な言い分だからね。
どうにか頼み込んで診断書を書いてもらったけど。
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名を知らぬ看護師さんとの出会いから、少しずつだが心からの本物の笑顔が増えていった。
病気も増えていったが。笑
幾つもの病気や症状を抱えているので、どれかが悪化したり複数の病気が同時に悪化したりもする。
だがしかし。
動ける時に動かないのは人生の損だ。
何歳になろうが人生を楽しめなければ損なのだ。
『何歳になろうが』で思い出したが、18歳の時に早く30歳になりたかった。人生経験を積んで知恵や知識を身につけた、人として成熟した大人に。
死にたがりだから、人生の駒を早く進めたかった思いがあったのかもしれない。
目標の30歳になった時、おおかた自分が思い描いていたような大人になれた気がした。しかし目標がなくなった。
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そこで次の目標を掲げた。
早く50歳になって、かなり熟れたいい感じの中年になりたくなった。熟れすぎかもしれないが。
壮年時期には苦節もあったが、思い描く中年にそれなりに近づいている気がした。
しかしながら、人生の歩みは遅いようでもあり早いようでもあり、またしても目標の50歳を迎えてしまった。
次の目標は立てなかった。
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30歳を迎え、50歳を迎えるまでのちょうどど真ん中。その頃の出来事をちょいと振り返って書いてみよう。
ちょいとでは済まないから、誰もが他人の人生の話なんて読む気が起こらないくらいの内容(長さ)にしてみよう。笑
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西暦が2000年を迎える約半年前。
ちょうどキリが良い2000年を前に、フト考えた。
四十を前にし、
私は一体何をどうしたいのだろう。
どう生きればいいのだ?
私って何者なんだろう?
何のために生かされてる?
いろいろと疑問が湧き出てきた。
誰だ?「四十にして惑わず」なんて言ったのは!
まだ四十未満だったけどさぁ。
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それらの疑問が解決するかどうかは定かではないけど『自分探しの旅』と称して『西國三十三霊場』を巡礼することにした。別段、宗教に救いを求めたかったわけではなかった。
1999年6月6日に始めた巡礼は、同年7月3日に満願となった。
『西國三十三霊場』を巡っての『自分探しの旅』で何かを見つけることができたのか。
答えは『何も』だ。笑
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ある日、医療機関で医師と雑談する機会があり、この『ある年齢を目標として生きていること』を話したら「変わってるな」と言われた。笑
ちなみにその医師は、医師をしていない時は僧侶をしているらしい。検査データに出ない症状でも自己申告を信じてくれ、詐病扱いしない人だ。
「普通(普通が何かは判断が難しいが)歳をとりたくないと考えるのに変わってるよ」と念押しされた。
確かにそうかもしれないが、そう言われても18歳の時から目標を目指し、更新しながら生きてるのだから、今更そんなことを言われてもねぇ。
Dr.
「もう50歳過ぎてるやん、どうするんや?」
私
「そうなんです。どうしましょうか。次はロマンスグレーが素敵な70歳でも目指しましょうかね」
Dr.
「ええんちゃうか」
そんな会話から次の目標が定まった。
今はその目標に向けて生きている最中だ。
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10年に1度、5年に1度?、いや3年に1度くらいは、何かの病気の症状が悪化して、起き上がれないほどで寝込んだりもするけど、寝込んでいない際の時間は、その時の体調に合わせ自分が楽しいと思う事をしまくる。
なんでもいいのだ。
早朝によたよたと散歩をして昼間より綺麗な空気を吸い込むとか、たいして綺麗でもない川の流れを見つめてみたり、陽だまりの暖かさを感じてみたり、雲の流れを見つめたり、月や星を眺めたり、植木たちに水やりしてじっくり観察してみたり、鍋やシンクを念入りに磨いたり、ミシンや手で何かを縫ったり、編み物をしたり、工作をしたり、誰かと一緒にショッピングして食事を共にしたり、寺社を巡ったり、ニュースを読んだり小説を読んだり漫画を読んだり、映画を見たりドラマを見たりアニメを見たり。その他いっぱい。
能動的だったり受動的だったり。
その時の自分が楽しめればそれで良いのだ。
他人から見ればちっぽけな『できた』が、『達成感』として小さな『幸せ』に思えるのだ。
年齢ひとつにしても、1つ歳を重ねれば「ここまでこれた」との思いに至れる。それもまた達成感なのだ。
これは病を患っているからこその感情なのかもしれない。
そうかもしれないが、そのちっぽけな感情が更に自分に勇気をあたえてくれる。
植物を育てることは、毎日が『発見』で、植物が元気に頑張って育ってくれることで癒しを与えてもらっているとともに、頑張って成長する姿は生きようとする心構えを後押しされているようにも感じる。
病気のせいで今まで当たり前に出来ていたことが、1つまた1つと出来なくなっていった。手放したものがあまりにも多いから、どうにか残ったちっぽけな出来事(やれること)は、存分に楽しみたい。
ちっぽけな出来事から得られる嬉々たる感情の積み重ねが実は幸甚で、心を温かくし平穏に過ごす秘訣として大事なことなのかもしれない。
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『じっと手を見る』と石川啄木は言った。
働いて得た給与のほとんどが医療費に消えてなくなる人生を送ってきたが、我が手を見て、この手にできたシワは今の年齢に至るまで、もがきながらも懸命に生きてきた証だ。誇っていいと思う。
暮らしが楽になることなどないけれど、今後どうなるかなんて神や仏にしか分からないのかもしれないけれど、未だに死にたがりが心の奥底で静かにくすぶっていたりもするけれど、とりあえず、次の目標である70歳を迎えられるように願いつつ、『玄冬』を目指し、ちっぽけな幸せを積み重ね、体は老いても心に豊かさを感じつつ生きていこうと思う。
この記事を #自己紹介 に代えて
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余談。
一時期、自分の腹腔内の様子が医学生の勉強に役立てられていた。ある日病院で『献体』のリーフレットを見た。持ち帰って隅々まで読み問い合わせしてみた。問題があった。献体に同意してくれる親族の了解を得なければならない。残念ながら一番近い血縁者とは連絡がつかない。年老いた叔父や叔母に頼めたとしても、私より先に逝ったら意味がなくなるので、私より若い従兄弟たちに了解を得る必要が出てくる。普段から連絡など取り合っていないから、いきなり献体の話を持ち出してもね。おかしな体だから医学の役には立つと思うのだけど、献体するのは難しいかもしれない。残念だ。
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