三文小説編
この状況を迎えることをなんとしても避けたかったのに、それが不可避となったことに私は絶望していた。
「もう定時過ぎてるんだから帰りなよ」
『いや会社に戻ります』
「残業になるよ。やめなよ」
『でも戻らないとなんで』
後輩の砂川は頑として譲らなかった。
結果として私と砂川は約30分に及ぶ電車内共存を強いられることとなった。
いやマジで他の電車乗ってよ…
4月の部署異動にあわせて一部案件も別部署へ移管しなくてはならないものが何個もあり、そのうちのひとつで私はこの砂川へ引継ぎをしなくてはならなくなった。
「正直これね、めちゃくちゃ楽な案件だから。現場行かないで引継ぎでいいよね?」
『ダメです。現場見させてください』
こうして私と砂川は二人で現場を見ることになった。
『ここの◯◯はどこにありますか?』
「ノータッチで契約外なんでわかりません」
『じゃあ探しましょう」
「えー…本当に?」
とにかく真面目なのか頭が良いのか悪いのかわからないが、彼女はやたらこの引継ぎに時間をかけ、それは不真面目な私を非常にイライラさせた。
15分で終わらせようと思っていた引継ぎは1時間を超え、その間ひたすら質問攻めを受けた私は完全に疲れてしまっていた。
「この後会社で仕事残ってるから(ほんとはない)この辺で上がろう。お疲れ様」
『お疲れ様でした。私も会社へ戻ります』
「ああそう…」
一緒に戻らないといけないじゃねえか。
なんてことだ。もう話したくないのに。
しかも俺は本当は何もないのに。帰ろうと思っていたのに。
その後冒頭のやりとりとなる。
結局引き返すわけにいかなくなり、私は砂川と一緒に電車で戻ることとなった。
「ねえ砂川さん」
『なんですか?』
「趣味は?」
『寝ることですかね』
「あ、そう」
『…』
「出身は?」
『群馬です』
「おお!良いとこだね!」
『そうですか?』
「多分…」
『…』
「…」
『…』
「ねえ砂川さん」
『はい』
「いまの時代はね、たとえば彼氏いるの?とか年齢いくつ?とか聞くのはもってのほかで、休みの日何してるの?も聞いたりしたらセクハラになるんだってさ」
『そうですね』
「かと言って政治や宗教の話なんかするのはヤバいでしょ。だから俺は当たり障りない会話をするね。この会話で俺が面白いかつまんないかを決めないでね。やむなくだから」
『いやそれなら無理に話さなくても…』
「右利き?」
『…はい』
「生まれたときから?」
『生まれた時から右利きです』
「お箸どっちの手で持つ?」
『右ですね』
「おお。左利きに憧れたりする?」
『いや別に』
「友達に左利きいる?」
『いますね』
「右利きの友達は?」
『もちろんいますね』
「でも言うてやっぱ世の中右利きだよね」
『この話、広げる必要あります?』
「ない。でもどう?これセクハラになる?」
『なりますね』
「なるんかい」
『松岡さん…松岡さんってちょっとだけ面白いですね』
乗車から22分。
これが怒涛に話しかけ続け、ようやく彼女か少しだけ笑った瞬間であった。
◯
『気分が悪い』
エステオーナーは一度注ぎの琥珀ビールのグラスを撫でながら私にそう言った。
「それはお酒を飲みすぎた、ってことですか?」
そう尋ねると彼女は一度腕を組み、何度か首をかしげる動作をしながらゆっくりと『違うよ』と答えた。
「じゃあこのLINEですか?」
『うん。その人だね』
私の言う"このLINE"とは45歳人妻のシロが48歳妻子持ち男性から"俺のためにマッチングアプリはやめて。友達と会うのもやめて"と地獄のようなLINEがきたのをスクリーンショットにとって、私に送っている部分だった。
【『どうしよう。すごくしつこい。どうすればいい?』】
【「ブロックして無視したほうがいいんじゃないですか?」】
【『でも電話もしたし。それにこうやって言ってくれるのって私は結構嬉しいんだよ』】
【「いやでも危ないんじゃ…」】
【『どうすればいいかな?』】
「これって僕に嫉妬してほしいからこういう面倒くさいこと言ってきてるんですかね?」
『うーん。やっぱり45歳にもなるとなかなか女性として扱われる機会少ないから。色気をみせたいんだと思う。それでかまってもらって欲求を満たすと言うか』
このエステオーナーの見解に対し私が「あー…」と何かを思い出したように呟くと、彼女はすかさず
『何か思いあたるの?』と尋ねた。
「思い浮かぶというか。実際会ったときはめちゃくちゃ色仕掛けでしたよ。居酒屋でキスしたり、股を開いて触らせてきたり。ブラジャーをとって胸をみせてきたり」
『ええ。何それ。すごい自信があるんだねその人』
「だいぶあると思います。彼氏もいるし遊び相手も多いと言ってました」
『キミも誘われてそういうことをしたの?』
「いやしてないです」
『ホント?なんで?』
「その場所って上野だったんですけどね。なんだか上野の居酒屋で人目気にせずキスしてるオジサンオバサン見たことあるなって思って。それが自分もそうなりつつあると思うと急に格好悪く感じて。それでしませんでした」
まあ本当は全部したのだが。
『ならよかった』
「そうですか?」
『悪口になるけどその人、なんかほんと嫌だ』
オーナーは先程までの上機嫌が嘘かのように、あまりにも機嫌悪く私を一瞥した。
私は手元のソーセージの盛り合わせを一本ごとに四等分し、2パーツごとに彼女の小皿に盛ってあげると、彼女は『ありがとう』と小さく礼を述べ、また不機嫌な顔になった。
「た、多分恋愛ごっこをしたいんじゃないですかね僕と。あいにくやはりそういう面倒くさいのは苦手ですし、僕自身も含めてなんだか年不相応でみっともないので、いまは彼女ごとブロックしました」
『恋愛ごっこがしたいっていうか…自分に自信があるんだよ』
先程からそればかりだなと思った。
しかし彼女は不機嫌になる一方である。
私は手元のタッチパネルを操作し、自分のビールを頼んだ後に「なんか飲みますか?」と彼女に尋ねたが、『まだ大丈夫』と素気のない答えが返ってくるだけだった。
この後彼女は
『気分が悪い』
と強く呟いた。
『実際色気は感じた』
「それは多少」
『そりゃ気持ちはわかるよ。色んな人に女性扱いしてもらえるのは嬉しいし、エッチだってめちゃくちゃしたい。だから絡んでいく。でもそれをやったら終わりじゃん。搾取だよそれは。搾取しているんだよ』
え?搾取なのこれ?と思った。
しかし「え?搾取なんですかこれ?」というと彼女の機嫌を損なってしまうことがすぐに予想できたので、
「僕が搾取されてるってことですか?」
と答えることにした。
『そうだよ。ガッツリ搾取だよこれ』
搾取なのかこれ…と思った。
しかしやはり「これ搾取なんすね…」というと間違い解答な気がありありとしてきたのでそこには触れず、
「まあでももうブロックしましたから」
と伝えると、彼女はまた不機嫌にビールを飲んだ。
『やっぱダメだ。ほんとにムカつく』
「あの、何が一番ムカつくんですか?」
『…うーん。まあ色々』
「えー」
『…』
「あの。それって、もしかして僕を誘惑したから怒ってるんですか?」
『…うーん』
彼女はグラスを握る手をゆるめ、再び腕を組むとしばらく考えこんだ。
そして静かに小さな声で
『少しだけ、そう』
と言った。
◯
『それは母性だねー。母性と同族嫌悪だね』
プレイを終えたナツキ穣はそう言った。
「母性は恋愛感情みたいなもんですかね?」
『どうだろうねー』
ナツキ嬢のプレイはいつも最高だ。
けれども彼女のトークは50%くらいの確率で塩っぽく冷たくなる。
だがまあ50%でそれがすむなら個人的には全然マシなほうだ。
『今日なんかすっごい疲れててご飯も食べてないんだ』
「あーそれでなんだけど」
予約の段階で彼女が完売状況分刻みのスケジュールでこの日を勤務することはわかっていた。
そのため私は何か食べ物か飲み物を差し入れようと考えた。
しかしいざ差し入れをしようかと思うと、何を買っていいのかわからず、なんだかわけがわからなくなってきたので3000円分のギフトカードをあげることにした。
「食べ物が何がいいかわからなかったからごめん。これで自分で好きなもの買ってくれる?」
『え!?マジありがたいんだけど!ありがとう!ほんと嬉しい!』
お世辞なのかどうかは私にはわからないが、あながち間違ってはいなかったようだ。次はPayPayで送金しよう。
「ねえナツキちゃん。僕はこれだけ金払いも良いし気の利いた差し入れもする。本番も強要しないし連絡先を教えてくれも言わない。これだけ良スペなのになんでモテないのかな?」
『…ごめんきいてなかった』
「なんでもないよ」
顔が悪いからだよとか太ってるからだよと言われてしまうとたまったもんではないので私はこれ幸いにと話題を切り上げ、帰り支度を整えた。
◯
昨今、いやここ数年において、年をおうごとに性的搾取は大きな問題となっている。
時には誰かが勇気を出し、それを告発し、時には誰かがその勇気を守り、そして時には誰かを助けたいという信念が、また他の勇気を傷つけることになったりしている。
女性と遊び、女性を買い、女性に貢ぎ、女性を愛するこの小汚い中年男性の私の行為は、どこに位置する正義なのだろうか。
目に見えるものが真実とは限らない。
何が本当で、何が嘘か。
私のこれまでの行いは、搾取する側なのか。される側だったのか。
『私も会社に戻ります』と言った後輩は、わざわざ会社に戻る理由があるのか。
エステオーナーが怒っていた相手は、LINEを打ってきた相手か。それともそのLINEを見せた相手か。
ナツキちゃんとプレイをするのは何回目なのか。
私の書く日記は、赤裸々な告白なのか。
それともフィクションか。
全ては、いまこれを記載しているスマートフォンの写真フォルダとメモアプリの中に。
コンフィデンスマンの世界へ、ようこそ。