ドリフ大爆笑と道徳教育
私はお笑いが好きだ。好きになるきっかけはM-1だったが、古典も好きだ。たとえば、ドリフ大爆笑。テレビ史に残る大コント番組だ。
ある回を見て思った。志村けんとよくわからない女性が演じる子供2人が、加藤茶が演じるご近所さんの家の塀でキャッチボールをして、バンバンやかましく音を立てるというネタ。
夫婦のおじさんの方は「この塀はおじさん家の塀なの。どっか違うところで遊びなさい」と言うのだが、この注意は的を射ているのだろうか。
その塀がある人のものだから遊びに使ってはいけないのだろうか。いや、その"ある人"によっては使っていいよと言うかもしれない。
実際のところ、怒られたと思ったら子供は怒られたくないという思いで行動を変えることもあるだろう。しかしそれは相手に対する反射でしかなくて、痛いから目を瞑るのと変わらず、注意を聞き入れているわけではない。
この注意はそれ自体が正しさを含有していないし、正しい行動を促してもいない。なぜこのように失敗しているかというと、根本を説明していないからだ。
問題の根本は「それによって不快な思いをする人がいる」というところにある。石ころを蹴飛ばしながら歩いてもいいが、その石ころが誰かの物だったらダメなのは、前者は人を不快にさせない一方で後者は誰かを不快にさせるという効果があるからだ。
もし、誰も不快にさせないのにしてはいけないことがあれば、それは無意味な束縛であり、不快であるがゆえに、最終的に道徳は…………人を不快にさせないためのルールの束は合理的になる。だから道徳は守られるべきなのだろう。
おじさんはただ状況を説明をしているだけで道理を説いておらず、説得できない。また、道理の道理も、もちろん説いていない。
なぜ道徳が存在するかについて…………おじさんは同じ社会に生きる以上、相手をどれだけ見下していても、相手を…………子供たちを巻き込んで話さなければならない。
もし道徳がなければ、法律の許す限りで、他人を不快にさせる行為が蔓延する。初めは少数の性根が悪い奴らが始めるだろうが、次第に、普通の人々も「あいつらばっか悪徳でいい思いしてるのに俺ら私らが守る意味ってある?」と便乗する。それはねずみ算式に加速して、いずれ法律すらめちゃくちゃにされるだろう。
そうならないように道徳的に生きなさい。君たちだけじゃなくておじさんたちもそうするから。そう説くべきだっただろう…………まあ、できないだろうな。俺も実際にそんな状況でできるかというと、まあだめだろうな。