我々は死に続けている/生きていない
倫理学の授業の初回辺りでハゲのパラドクスというものを教わった。これは、ある人から髪を一本ずつ抜いていったらどの時点でハゲになるのか? という問題だった。そのときは面白いなあと思ってそれまでだったのだが、哲学同好会の開催する発表の場にて『存在』についての五回ほどの発表を重ねた結果、ある興味深い問いを立てられるようになった。
このパラドクスはどれも同じ髪の毛という量の問題であるが、これが質の問題かつ、人間に適応するならばどうなるのだろうか? 私たち人間は日々変化する。十年前の自分や、もしかしたら一時間くらい前の自分でさえ別人のように思えることがある。にもかかわらず、なぜ私は私なのか? たとえば橋本環奈さんと私は別人のようだが、橋本環さんのことを「容姿、体系、体の構成、趣味嗜好、人生経験、職業、人間関係、出身地、その他の諸々違うだけで私である」と言えなさそうなのに、紙で手を切っても「手を切っただけの私である」と言えそうなのはなぜだろうか?
これらの疑問に対する結論は時間の問題から考える必要がある。この世界には、この瞬間の私しかいない。過去の私はこの瞬間の私の記憶の中に、未来の私はこの瞬間の私の予測の中にしかいない。だから、小数点以下の数字の時間が経っただけでも、この瞬間の私はいなくなる。
さて、急に話題は変わるが、机は縦に切断すると机ではなくなる。しかし、横に切断すると、脚の短い机になる。なぜか? それは、机とは物を置けることを求められた結果として生まれたものだからだ。だから物を置ければどんな変化が起こっても机は机なのである。
人間も同様である。私は過去の私や未来の私とは別人であるにも関わらず、この時々の私がそれらを私と見なしたいがために、私なのだ。なにかトラブルを起こすと気が動転していたとかあれはうっかりしていただけだとか同じ私であることを否定したくなるのに、成功する分にはそうでもないのは、そのためだろう。
死には心臓が止まることだとか細胞分裂が終わるとか脳の機能が働かなくなるとかさまざまな定義が存在するが、どれもそれらを死と見なしたいから死であるだけで、実際の死とは、今まさに続いているものだ。
では、身体が完全に停止し、火葬され、海に散骨されても、それでも死に続けているのかというとそうではない。これはそもそも生とは? という問いに繋がる。端的に言えば、生などというものは存在しない。私たちのあらゆる思考と行動は計算不可能なほどの複雑で高度なさまざまな法則によって決定されており、私たちはピタゴラスイッチのどこかの仕組みのようなもので、生を思いついたのもその一環に過ぎないのである。そして、死に関してもそうだ。
しかし実際の話をするとやはり生と死はあるように思えるし、私もそのつもりで暮らしていくので、一応の分析をし、残った疑問を羅列して終わりとする。
疑問1、本当に過去や未来は存在しないのか?
疑問2、本当にすべては決定済みなのだろうか?
疑問3、なぜ身体的な変化を死と見なしたくなるのか?
疑問4、なぜ生を存在すると思うしかないのか?
追記
物を置けるように机が求められているのなら、そしてそれに応えるために机が机なら、人間は生になにを求め、どう応えるのか。私はあらゆる人間は幸福に向かっていると考える。では、生は、幸福を得ることができるためにその存在を信じずにはいられない。そして、ただのどこのだれでもいい生ではいけない。あくまで私の生における幸福が求められるのであって、そこで人格や個性、意志が生まれるのである。
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