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自作小説をバイリンガル化した件、 そして物質から離れていく創作

 自分で多言語表現できればいいのだが、残念ながらその語学力はない。せいぜい日本語で書いたものを英語にしてもらったら、それが自分の文章とどんなふうに対応しているか、表現が適切かくらいは分かるくらい。(他の言語になったら嬉しいが、一切分からない。)
 私は自作を自腹で英訳してもらったことがある。別に出版のあてもないが、英語でのコンテンツを持っておきたいと思ったからだ。まあ、Kindleストアに上げっぱなしだが、何も起こらない(笑)。無論、日本語版も。まあ、大した作品じゃないということである。

(あら、USサイトは、埋め込みが効かないのだわ。)

 そもそも物を書くのは小説から始まって、新人賞などもらったものの、それは一体何だったのだろうと訝しむほど全くモノにならず、故にか、既にこの形体の文章が自分の領域であるかは疑って久しい。(たまに書いてはみるのだけど……。)
 結局「物書き」と名乗るもおこがましい状態のまま、ぐだぐだし続けている。その理由としては無論、力不足が筆頭にくるのだが、デビュー前後、萎えることが色々と起こったのも事実で、当時のことをそろそろ少しは吐き出しておきたい気がしている。
 文壇Metoo話というほどのこともないのだが、それでも自分が「小説家を志す若い女性」や「若くして賞を獲った女性」だった頃、その世界はやたら男社会だった。女性の編集者もいたことはいたが、「文壇バー」に連れて行かれると、有名お爺さん作家が両手にホステスを抱えるような感じだったし(一緒に海外に行くとかいう話をしてた)、賞の下読みの「評論家」なんかまるまるスケベ心丸出しで呼び出してきた。若い新卒程度の編集者を担当としてつけられたりして、結局その女の子には何の力もなかった。こっちも若いし血気盛んで編集者の言うことなんか聞かないし、気弱ではない暴力的な人間だったので、「ふざけんな、バカ」と思っていた。結果、仕事の話なんかなくなった。まあ、この辺は詳細に書くと、精神衛生に悪いし、読む方も不愉快になるだけだろう。そんな感じだったんですよ、にとどめよう、やっぱり…………。
 今はそんなでもないかね? 知らんけど。近付きようがないから。だが、こんなようなどころじゃない、もっと下劣なMetooについて戦っている人々には、拍手を!  (フリー稼業の、特にクリエイター系は、ひどい目に遭っている。)

 そう、「小説」という物語について、である。
 物語反乱中の世の中で、これ以上要るんだろうか? しかも、自分が書くものが。消費側の立場として考えても、こんなに氾濫している大海から、「読みたい」を掴み出すのって、なかなかな労力である。J堂など大型書店に行って、その場に存在する書物の物量に圧倒されるし、音楽でも「NO LIFE NO MUSIC」の黄色いビルで「聞きたいかどうかは別として、一生掛かってもここにあるもの全てを聞ききれないのだ」と絶望的な気分になる。しかし、今や目に見えないコンテンツ――特にネット空間に存在するものは、この物量の比ではないわけだ。
 そこでいろいろなメディア・ミックスの新種はあり得るかと考えたり、本来の出版体系から離れた新たな形を見つけ出したいと躍起になったりする。Kidleもその中の有用な方策で、日本語で発表できるまでには、システム整備が英語圏に比べてかなり遅かったが、有り難いプラットフォームにはなっている。でもまだ、どんどんと別空間が創造され、可能性が広がっていくに違いない。(無論、Noteもそのひとつである。)
 それについていくには、どんな発信をしていけるのか。小説、物語も含めて言語の届け方はどのような変貌を遂げるだろうか。しかもちゃんと対価が生じるように。「クリエイター」と呼ばれる人々の活躍の場は、実質的な「場」を軽やかに飛び越えて、仮想空間に広がっているのは事実だ。映像も音楽もディストリビュートの方法が全く変化してしまった。文字分野もそうした軽やかさについていかねばなるまい。決して紙で構成された書物なる形体が絶滅しないとしても。
 なんて、こ真面目にどうしたら社会と繋がっていけるか、意地汚く、無い知恵を絞る今日この頃である……。特に王道から外れた身故に。私が知らないだけで、既に新たなシステムが力強く息づいているのだろうか。だったら、追いつかないと――(おろおろ)。

音楽もストリーミングが一般化。CDも消えゆくか? ©Anne KITAE





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