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プレゼントの話

プレゼントが苦手です。
プレゼントする方じゃなくて、されるのが。
どんな顔して受け取ったらいいのか、半世紀以上生きてきても未だにさっぱりわからない。欲しかったものだったとしても「えっ、こんなものを本当にもらっていいのだろうか」とか「ぼくが欲しかったコレを、時間とお金を費やして贈ってくれたあなたの、その気持ちや労力に見合った喜び方ができるのだろうか」とか、いろんなことをものすごい速度で目まぐるしく思考して、その挙句フリーズしてぎこちない笑みを浮かべるだけの薄気味悪いリアクションしかできないので。
ましてや、たいして欲しくないものとか、形だけのどうでもいい土産物(ごめんなさいね)をもらった日には、もう目も当てられない惨事です。

だいたい、世の中の人はなぜあんなに素直に喜びの感情を表現できるのだろう。
ぼくが水ぼうそうで小学校を休んでたときに、「贈り物をもらった時の喜びかた」の授業とかがあったんですか?
それとも、そういうのって親から教わったりするものなんでしょうか。少なくとも、ぼくは教わってこなかった。

妻はもうぼくのそういう性格を理解しているし、娘も幼い頃から「パパは何をあげても喜ばない」とわかっているので、昔から誕生日もクリスマスも父の日も、基本的には「何がいい?」と訊いてきます。ところが非常に面倒なことに、ぼくはあんがい物欲というものがない。自分で買えるものは欲しければ買ってしまうし、ほんとうに欲しいものはお金で買えないものか、非現実的なほど高価なものかのいずれかです。

こうして冷静に自己分析してみると、たぶんぼくは「相手をがっかりさせる」ことに著しい恐怖を感じるんだと思います。
プレゼントなんてものはだいたいが、贈る相手を喜ばせるために贈るものなので、その「喜ばせたい」という期待に応えられないのではないか考えると、自分はいまちゃんとこの人の期待に応える喜びかたがてきているんだろうか?という不安と恐怖で心がいっぱいになってしまう。そうするともう、何が正しい反応なのかわからなくなってしまうんですね。

「喜びかたがわからない」、これって人間としてどうかしてますよね。
太宰治『人間失格』の主人公・葉三も、きっと似たような人間なんだろうなと初めて読んだときに思いました。彼はそういう本性を隠して道化の擬態を演じるのに長けていましたが、ぼくにはそんな才能もない。

プレゼントを贈るのは、むしろ好きです。そして、相手が喜んでくれるのは当たり前にうれしい。でも、逆の立場になったら、ぼくにはどうしてもそんなふうに上手く喜ぶことができない。
娘がもっと子どもの頃からこんな調子なので、きっと幼い彼女の心を傷つけてしまったこともあったんだろうなと思うと胸が痛みます。過去に付き合ってきた恋人たちのことなんかも、きっとすごくがっかりさせてきたんだと思うと、できることなら謝りたいと思ったりします。

形のないプレゼントならいいのかというと、そうでもないんです。
喜びかたがわからないという同じ理由で、サプライズというものに対してもとてつもない恐怖と嫌悪を感じます。そんなことは自分の身にはこの先もう絶対に起こらないんだけど(笑)、サプライズでフラッシュモブなんかのプロポーズ動画を見ると、心底ゾッとしてしまう。あんな目に遭ったら、一生の思い出どころか来世まで忘れない究極のトラウマになると思います。

お願いだから、ぼくにプレゼントは贈らないでほしい。これは「饅頭怖い」じゃないです。本当に。

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