思考の壁面

 絶望と自己嫌悪が混ざり合う。あの人を好きだったら良かったのに、でもそんなこと考えるなんて恋人への愛が足りない……。
 ただの思考の流れを追ってしまう。それは私の未熟さが生んだ、私を苦しめる紐。ふと思うこと、それは空想のひとつなのだから、愛の重さや深さには関係の無いこと。頭ではわかっていても、それを定着させられない。身につかない。
 いくつもの考えや思想に、そうやって“頭では分かっている”、という思いを添えている。それは酷く哀しく、そしてつまらない。頭で分かっているだけ、経験の伴わない考え方だなんて。どれだけ的を射ていようと、どれだけ深い考えだろうと、他人がどれだけ感動しようと。
 私自身がそれを基盤に着けない限りは、私自身にとって全く価値のない考え方なのだ。価値のない、その上他人の心を動かすような重みもない、丸められた紙くずの内容みたいな考え方が、私の中に転がっている。……つくづく、ネガティブな私だ。
 どれだけ私が考えても、生まれるものに重みが無い。結局は固定化された思考の中をぐるりぐるりと歩いているだけなのだろう。他人が言っていた考えを、思考を、ロジックを、ただそのまま覚えて、それを混ぜ合わせただけのものを「自分の考えだ」と過信する。他者の考え方の本質を、基礎を理解していないのだ。
 昔からそうだった。応用力が無いのが私のコンプレックスだった。算数の文章題は、学年が上がるに連れてどんどん解けなくなった。けれど、“基礎がなってないこと”が、幼い頃に分からなかった。自分でわかった頃には、「自分には出来ない」という凝り固まった先入観が私の目を塞ぐようになっていて、その先の見えなさに恐怖しては逃げて、逃げて、逃げて……もう何もかも取り返しがつかなくなった今頃に、「あぁあれは、あの時逃げなければどうにか出来たのかもしれない」、と自分の愚かさを知る。弱さを知る。それがどれほど苦しいことだろう!それを苦しむことが、また自己嫌悪に繋がる。
「強いひとは、自分の弱みすら強さにするのに」
そうやって他人と比べて、自己嫌悪に陥って、自己嫌悪してる自分をまた嫌って。いつまでも終わらないループだ。

 そんな自分を眺めて気づくことがある。それは、「可哀想な自分」に酔っている私自身が居ること。
 他人と比べて自分の粗探しをして、自分で「あぁ私可哀想!なんて可哀想なんでしょう!」なんて言って回る。それに気付く要因が“病みツイ”。フォロワーが居るアカウントでは、これでもかというくらいに病みツイを垂れ流すのにも関わらず、フォロワーの居ない完全な鍵垢には、最初こそツイートをしているけれども、だんだんとしなくなってくる。それに気付いた私は、「私の病みは承認欲求の現れだったんだ」と、そう漠然と感じたのである。
 これもただ、「私はこんなにダメな人間!」というプレゼンに過ぎない。こんなプレゼンをして、何がしたいのか。私の脳には何がこびりついていて、何が溶け込んでいて。自分のことがひとつ分かっても、また1つまた1つ、分からないことが増えていく。
 そうやって悩み続けるのが、私の運命なのだろうか。

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