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湊あくあの卒業に思うこと

 ホロライブプロダクション所属の人気VTuber・湊あくあさんが今月6日、自身の生配信において8月28日に卒業することを発表しました。
 VTuberの卒業・引退については過去に記事を書いたことがあり、その内容と重複するところもあるかもしれませんが、そのときからまた新たな考えが浮かぶようになったこと、そして心の整理のためにも改めて書きたいと思います。


■卒業発表

 VTuberの卒業・引退の発表には、いつまで経っても慣れることがありません。
 そして、ニュースはいつも突然にやってきます。

 湊あくあさんの配信予定のタイトル、「大切なお知らせ(残念なほう)」という字面を目にしたときには「せめて活動休止であってくれ…」と願いましたが、白バックに、凛としながらもどことなくせつなげという絶妙な表情を浮べたあくあさん、というサムネイルがパッと出てきた時点でこれから起きることをなんとなく覚悟しました。
 約10分間の配信を視聴すると、やはりと言うべきか、果たして今月に卒業するという報告なのでした。それを見届けたあとは何もする気が起きなくなり、ふて寝をしてそのまま朝を迎えてしまいました。あんなに虚しい目覚めは経験したことがありません。
 先程から感傷的なことを綴っておりますが、あくあさんは私の最推しのVTuberではありません。その程度の人間にとっても、今回の卒業発表はこれだけの破壊力をもたらしたのですから、あくあクルー(湊あくあファンの総称)の心境たるや如何いかばかりでしょうか。

■湊あくあさんの印象

 ホロライブという箱をゆるやかに追いかけるようになってから数年。
 意識せずともあくあさんの活躍を目にする機会は多いものでした。
 「陰翳礼讃」谷崎潤一郎もビックリの陰キャで、それでいて負けん気が強くて、ゲームがべらぼうに上手くて、メイドと言いつつメイドらしい能力を見せることがない、愛嬌満点の自称“銀河一最強アイドル”。ホロライブの黎明期から活躍し、業界全体を盛り上げる起爆剤となった立役者の一人として数えられること間違いなしの偉大なVTuberです。
 私はホロライブの手描き切り抜きアニメを投稿している「とりぷる」さんのファンなのですが、中でも紫咲シオンさんとのコンビ、いわゆる“あくしお”の脳死会話シリーズが好きで、その何とも言い表しようがない唯一無二の空気感に「なんて面白いんだ…」と何度もメロメロになったものです。

 そんなあくあさんが、このたび卒業を決意し、ホロライブを去ることになった。
 卒業発表の配信を再度聞き返しましたが、彼女は一本筋の通った、芯の強い人なんだなという印象を受けました。だからこそ、今まで業界の最前線を走ってこれたのかもしれません。
 彼女の活躍をただただ享受する側だった人間としては残念な限りですが、あくあさんが最後まであくあさんらしく在り続けるためには、今回の選択は避けられないものだったというところでしょうか。

■存在の“死”

 湊あくあさんの件に限らずですが、VTuberの卒業・引退の報に接するたびに私は思いのほか落ち込んでしまったり、胸にモヤモヤしたものを抱えます。
 それは、どうやらVTuber(特に企業勢?)ならではの特性に原因を求めることが出来そうです。
 VTuberは、アバターと“中の人”で構成されています。
 文字通り“一心同体”の存在であり、この二つの要素のどちらが欠けても成立しません。
 現行のVTuberという形でもう活動しないことが決まっても、当然ながら“中の人”の人生は今後も続いていきます。また別の形でVTuberとして再始動するか、もしくはしばらく活動自体をやめるかは、その人の自由です。
 しかし、残されたアバターの方はどうでしょうか?
 “中の人”の魂が抜けてしまったアバターは、意識がない状態のため自分で自らの処遇を決められません。卒業のあとは、基本的には二度と表舞台に立つことはないでしょう(別の“中の人”が現れて新たに声や操作を担当するというケースもあるようですが、それはきわめて稀少な例です)。
 そう、“中の人”が別の形で健在だとしても、(企業との契約から逃れられない限りは)その人が演じたVTuberが活躍することはもう二度とないのです。
 ところでこれは個人的な感覚の話になりますが、私は、私以外の誰かが死ぬことを“もう二度と会えない状態になること”と定義しています。
 その定義に従えば、VTuberの卒業・引退は、その存在自体の消滅であり、“死”です。
 こういう話になったときに“中の人”は往々にして「ファンが私のことを覚えている限り、私という存在は死なない」「みんなの心の中で生き続ける」ということを語ります。
 でも、そもそもその言い方は、誰かが亡くなったときにそのことを嘆き悲しむ人を慰める際によく使われるレトリックではないでしょうか。
 だから“中の人”がそのような言い方をするとき、本人自身がそのVTuberという存在の“死”を逆説的に認めているということになるのです。
 少し意地悪な書き方になってしまいましたが、突き詰めればそういうことになります。

■姫森ルーナの“死生観”

 詳しくは「ホロライブ速報」さんの切り抜きをご覧いただければと思いますが、ここで思い出すのは、桐生ココさん(2021年7月にホロライブを卒業)と姫森ルーナさんのエピソードです。

 卒業を発表したあと、ココさんはルーナさんに会う機会があり、その場でルーナさんはココさんの手を取り「(卒業は)イヤなのら!」と自身の想いをぶつけてきたとのことでした。
 それに対してココさんが「や、ルーナ大丈夫だよ、私別に死ぬわけじゃないし」と返すと、ルーナさんは一言、「死ぬのら!!!!」と一喝。
 そのあまりにも気迫に満ちた返答には、弁が立つことで有名だったココさんも「そう、まぁ、まぁ、ねぇ、確かになー…」と口ごもるしかなかったようです。
 私は、ルーナさんのその“死生観”の側に立つ人間です。

■VTuberの“一回性”

 人間は、自分の人生を一回しか生きられません。
 常に「残機は1」です。
 その意味でいうと、VTuberはその活動を終えた時点で再び我々の目の前に現れることがないので、同様に「残機は1」です。
 VTuberはよく現実とネットの世界をクロスオーバーする自由な存在として喧伝されることが多いですが、その存在の終わりの局面に関しては従来のただの人間と何ら変わるところがないという点が、ふだん我々はVTuberのことをポップな存在として認知している分、その存在の儚さをいっそう際立たせているように思います。
 逆に言えばポップな存在でありながら人間と同じ“一回性”を備えているからこそ、彼ら・彼女たちが卒業するときに何やらどうしようもなく胸に迫ってくるものがあるのかもしれません。

■会社員に当てはめてみれば

 なかなか小難しいことだったり辛気くさいことを情動のままに書き連ねてしまいました。
 卒業の理由としてあくあさんから明言されている「会社との方向性の違い」という文言が意味深なので思わず勘繰ってしまうところがありますが、もし自分の身に当てはめたとき、その理由自体はさして珍しいことではないことが分かります。
 仮に一人の社会人が会社を退職するとして、「仕事内容が自分に合っていない」「給料に納得がいかない」「上司とソリが合わない」など理由はさまざまでしょうが、それらも広義的には「会社との方向性の違い」によるものと言えそうです。
 ここ最近のどこかの動画のコメントで見かけたのですが、一つの会社でそこのメンバーが誰一人として辞めない、という状況はまず存在しません。どこの会社だって、一年に何人かが退職することはよくあることだと思います。
 あくあさんは今年の8月で活動6周年を迎えました。
 彼女の卒業が衝撃的であることに変わりはありませんが、一人の人間が同じ企業に6年勤めたときに「そろそろ転職を考えてみようか……」という結論を出す人が出てくるのは、きわめて自然な状況とも言えるのではないでしょうか。
 その選択をしたのが、今回は湊あくあさんであったということです。
 ホロライブを卒業をすることで、彼女が次にやりたいことの道へ進めるということであれば、その決意と覚悟は尊重されるべきです。

■傷つくべきときに十分に傷つく

 こういう状況において、受け手の我々としてはどうすればいいかを考えるとき、私は小説家・村上春樹に助けを求めたいと思います。
 村上春樹は2014年に「木野」という短篇小説を発表しました。
 この「木野」というのが本作の主人公であり、彼の苗字です。
 作中、木野はとある事件で精神が傷付けられることになるのですが、彼自身としてはそれを受け入れた・すでに克服したものとして日常生活において振る舞います。
 しかしある瞬間、それが本心ではなかったことを彼は唐突に悟るのです。

(略)
「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つく、、、、、、べきときに、、、、、十分に傷つか、、、、、、なかった、、、、んだ、、、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のないうつろな心を抱き続けることになった。

村上春樹「木野」より(傍点原文)

 木野が傷つく原因となった“事件”と今回のあくあさんの卒業における“ショック”の質はもちろん内容が異なるため、そのあたりは混同してはいけないのですが、一つの大きなショックなことがあったときの、それに対する向き合い方として上記の方法は有効かと思います。
 つまり、自身の傷つきをなかったことにせず、多少時間がかかってもいいので痛みを「引き受ける」ということです。
 つらいことですが、「傷つくべきときに十分に傷つく」ことが大事なのです。
 自身の傷つきと痛みを放置してしまった木野が辿った末路に関しては本編を読んでいただくこととして、傷ができているのを見て「これは傷だ」と認めなければ、治るものだって治りません。傷を直視することで、ようやく回復への一歩目を踏み出せると言えましょう。
 「痛みに向き合う」と書くと何やら大変なことをやらないといけない気持になってしまうかもしれませんが、やることは字面よりずっとシンプルです。
 周りに湊あくあさん、またはホロライブを箱推ししているファンがいれば、その人と今回の件について話をしてみるのはいかがでしょうか。「あの一報を聞いたときにこう思ったんだよね~」と軽く感想を言い合うだけでも、だいぶ気持の整理がつく筈です。
 また、向き合う作業は、一人でも出来ます。
 私にとっては、今回この記事を書くことで、あくあさんが卒業すると知って感じた痛みに向き合うことになりました。
 いま、こんな無名の書き手のnoteを読んでいる物好きなあなたは、きっと文章を書くところにも近しい位置にいる筈です。長文でも短文でも、いま抱えている気持を試しに言語化してみるというのはいかがでしょうか。
 さて、いろいろ試行錯誤してみて気持の整理がついたら、後はやることはたった一つですよね?
 そうです。残された者たちは、卒業生を盛大に送り出す。昔からそういう風に決まっているのです。

■きっと忘れられない夏になる

 なかなかデリケートな問題を孕んでいるので書き方も難しいところですが、今回は“契約解除”による引退ではないのです。
 “契約解除”と“卒業”の間には、とてつもなく大きな差があります。
 ホロライブだと契約解除の場合は、配信者としての活動は即日打ち切りで、最後の卒業セレモニーの実施すらありません。VTuberファンとしては、その対応も果たしてどうなのかという気持は無くも無いですが、現行はそういう形になっています。
 その点、卒業という扱いの場合は、“最後の日”が来るまでの時間の猶予が残されています。
 あくあさんは、最終日の28日に卒業ライブをやることを予告しており、そういう形で一区切りとなる“儀式”もちゃんと用意されています。
 悲しい気持はもちろんありますが、いろんな形でそれに向き合い、タイムリミットの最終日までに気持ちを整えることが出来れば、あとはもう、ひたすらに今後思い返す用の思い出を、あくあさんとみんなでたくさん作っていくだけです。
 ところで私はポルノグラフィティの「ミュージック・アワー」という曲が大好きで、夏にこれを聞くたびに胸にキューンとしたものが込み上げてくるのですが、その歌詞で「この夏は例年より騒々しい日が続くはずさ」という一節が、いま私の頭のなかで永遠にループしています。
 湊あくあという偉大なVTuberが卒業する今年の8月が、盛り上がらないわけがないのです。
 真夏の太陽とも見間違うくらいに燦然と輝くアイドルの光に照らされ、今年の夏はきっと忘れられないものになることでしょう。

 この稿は、ここ最近の湊あくあさんのXでよく見かける挨拶で閉じたいと思います。
また明日!


湊あくあ(本物)(@minatoaqua)Xより




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