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歯以外も磨いている

 私の取り柄の一つに「歯が丈夫」というのがある。
 人生で一回も虫歯になったことがない。
 むかし読んだ原田宗典氏のエッセイで「虫歯の苦しみを知らないのは、人生における苦しみの半分を知らないのと一緒だ」的な格言(うろ覚え)が紹介されていた記憶があるが、虫歯の痛みというのはそれほどつらいものだということであろう。
 それなのに、私は何故か毎月歯医者に通っている。

 歯が丈夫といっても毎日使っている「道具」みたいなものなので、たまには点検も必要だろう、ということで昨年自宅近くの歯科医院の門を叩いた。
 そこで歯科検診を受け、先生から「特に問題ありませんね」のお墨付きを得た。
 もともと勝ちが確定しているような試合である。
 人生いろいろうまくいかないことはあるけれど、俺はとにかく歯だけは一級品なんだ……と自己肯定感アップの余韻に浸っていると、「じゃあとりあえず来月も来てくださいね」と告げられた。
 「What's happened?」と思ったが、「ああ、検診でいい結果でも念のために経過を見守るのかな」と思い直し、来月も歯科医院に行った。
 「木屑さんよく磨けていますね~」と先生にまた褒められ、歯科診療用チェアーに腰かけたまま「やっぱり俺は歯が良いんだ……」とポワ~ンと陶酔に浸るわたくし。
 そして帰りの受付で「じゃあ来月はこの日に来てくださいね」と告げられ、予約の段取りをするのであった。
 どんなに歯の状態がよくても、どうやらこの歯科医院は歯の定期的なメンテナンスを推奨する方針らしい。
 こんな調子で私は毎月歯医者に通うようになった。

 「歯がよいのに何故……?」というちょっとした理不尽さを押し出すためにこんな書きぶりになってしまったが、取り立ててこのサイクルに私は不満を感じていない。
 むしろいいことずくめのように感じている。
 歯垢・歯石取りで歯がピカピカになり、しかも虫歯予防の薬を塗ってもらい、自らの資質に慢心せず万全の態勢を整える。
 このように将来への見通しがきく私のような傑物が、これからの日本の新しいリーダーになるべきではないだろうか?(過言)
 それはともかく冗談として、「良い状態のものをさらに良くしておく」という感覚はなかなか心地の良いものである。
 ロールプレイングゲームで例えるならば、自分の武器のレベルを無限に上昇させている状態だ。
 「もうそんなに武器を強化しなくてもラスボス倒せるよ!」と周りのパーティから説得されようとも「うるせえ、これが俺の美学なんだ!」と制止を振り切って武器屋に直行して伝説の刀鍛冶にカタナを預け、「カンカンカン!」とひたすら最強のカタナへと錬成してもらっている、そんな感じだ。
 ただ、私の職業はフードファイターなどの「歯を酷使する」職業ではなく、ただ毎日食事をするために歯を使っているだけなので、そのあたりに「俺はいい武器を持っているんだけどなぁ……(今日の晩飯も湯豆腐か……)」という消化不良は発生しているかもしれない。

 そして新しい発見もあった。
 ある日の検診で「歯間ブラシを試してみるのはいかがでしょう」と先生から提案された。
 歯間ブラシというと「“糸ようじ”的なものかな?」と思っていたら、実際出てきたのはこれ。

これが歯間ブラシだ

 細い針金状の毛先がある、めっちゃ小さな歯ブラシ。それが歯間ブラシの正体であった。
 歯に関することは全て柔軟に受け入れる私は、歯科医院からの帰りにすぐドラッグストアに寄り、一番サイズの小さい歯間ブラシを購入した。
 家に帰って早速試してみる。
 歯と歯の接触点、そこと歯茎のスキマにプスリとブラシを挿し込むと、確かにいつもの歯ブラシではおびき出せない食べカスが見事に除去できる!
 これは新鮮な喜びであった。

歯と歯茎のスキマにプスリと一発

「これでまた一つ、“最強”に近付いてしまったか……」
 そのとき独り、洗面所で歯間ブラシを手にしてわなわな震える私の肉体からは、ただならぬ覇気が放出されていたに違いない。

 さて、人間はものを食べないと生きていけない。
 食事をするときに歯は必須なので、丈夫な歯の維持は生命活動の根幹に直結している。
 毎日を健やかに過ごすためには、当然ながら日々の歯磨きは欠かせない。

 それはそうとして、30代に突入してからというもの、体力の低下を自覚する機会が多くなった。
 満員電車で通勤して、会社で仕事して、クタクタになって帰宅して、メシを食って風呂に入ったら「もうその日一日の体力は終わり」という状態の人間が一丁出来上がる。
 脳の後ろの部分がボーッとした状態でソファ代わりのベッドに腰かけると、「今日はもう何も建設的な行動を取りたくないなぁ……」という気分に襲われてくる。
 そうなると、「歯を磨く」という何気ない行動が非常に高いハードルのように思えてきてしまうのだ。
 私の中の悪魔が耳元で巧妙に囁く。
「お前は今日充分にがんばった。その褒美として、今日は歯磨きなんかサボっちまえよ。お前は毎日毎日がんばり過ぎなんだよ。もともと歯がいいんだし、一日くらい大丈夫だろ?」
 私もそんな気がする。
 なんだか目の前が霞んできた。風呂上がりから1時間経ったぐらいが、入眠にはベストなコンディションだそうだ。
 パトラッシュ、疲れたろ……。僕も疲れたんだ。なんだかとっても眠いんだ……。
 しかし一抹の不安を感じ、最後の力を振り絞って目を見開くと、悪魔は果たして虫歯菌のコスプレをしていた。
 私はすぐさまワイヤレスヘッドホンを装着し、スマホで爆音の音楽をかける。
 耳から流入した音の洪水によって、目の前の悪魔が搔き消えた。

 やっとの思いで邪念を振り払い、洗面所に立っていざ歯を磨きはじめてみると、直前までの己の葛藤がまるで嘘のように「やっぱり人として正しい行動ってコレだよな!」という風に思われてくる。人間というのは実に現金なものだ。
 私にとって毎晩の歯磨きは、一種の瞑想のようなものである。
 風呂上がりでサッパリしたあとの心地よい疲労感で、頭は半ばボーッとしている。
 そのときの一番のお気に入りの音楽を爆音ヘッドホンで聞きながら無心にシャコシャコ歯を磨いていると、次第に頭の中がからっぽになってゆく。
 シャコシャコシャコシャコシャコシャコ……。
 ヘッドホンから洩れるシャカシャカ音との二重奏。
「今日もいろんなことがあったな……」
 一日にあったことを思い返し、頭の中を整理する。とりあえず今日という日が無事に終わったことが、じわじわと嬉しくなってくる。
 実際に磨いているのは当然ながら己の歯であるわけだが、頭や心の中といった己の内面も同時に私はシャコシャコしているのであろう。
 たとえイヤなことがあった日でも、モヤモヤした気持と一緒にハミガキ粉をペッと吐き出せば、水に流せる。そんな気がするのである。

 ところで最近はいろいろ思うところがあり、転職を検討している。
 履歴書を書くときは「特技欄」でペンが止まってしまうタチだが、
「特技:口内環境を良好に保つ」
と書いてみるのもいいのでは? と真剣に思いはじめている今日この頃である。



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