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日本史人物伝 No.240~245
No.240 貝原喜勢冶
1858(安政4)~1897(明治30)12月
読み:かいばら・きせじ
姓:貝原(かいばら)
名:喜勢冶(きせじ)
性別:男
出身地:大阪?
剣術家の針金強盗団の首謀者。広島護送死刑囚脱獄事件を起こした。
No.241 福永友三郎
?~1897(明治30)6月21日
読み:ふくなが・ともさぶろう
姓:福永(ふくなが)
名:友三郎(ともさぶろう)
性別:男
出身地:大阪?
剣術家の針金強盗団の一人。広島護送死刑囚脱獄事件を起こした。
No.242 湊蔵貞
?~1897(明治30)6月
読み:みなと・くらさだ
姓:湊(みなと)
名:蔵貞(くらさだ)
性別:男
出身地:大阪?
剣術家の針金強盗団の一人。広島護送死刑囚脱獄事件を起こした。
No.243 明石章吉
?~1897(明治30)以降
読み:あかし・しょうきち
姓:明石(あかし)
名:章吉(しょうきち)
性別:男
出身地:大阪?
剣術家の針金強盗団の一人。広島護送死刑囚脱獄事件を起こした。
No.244 高橋某
?~1897(明治30)以降
読み:たかはし・なにがし
姓:高橋(たかはし)
名:不明
性別:男
出身地:不明
剣術家の針金強盗団による高松での事件の共犯者。無期懲役。
No.245 壱岐盛丈
?~1930(昭和5)
読み:いき・しげたけ
姓:壱岐(いき)
名:盛丈(しげたけ)
性別:男
出身地:不明
広島県五海市駐在所の巡査。のち広島市議会議員。
連続針金強盗殺人事件
1897(明治30)3月30日、兵庫県神戸市の裁判所で貝原喜勢冶(かいばら・きせじ)、福永友三郎(ふくなが・ともさぶろう)、湊蔵貞(みなと・くらさだ)、明石章吉(あかし・しょうきち)の4人組に、死刑判決が宣告された。
4人は、1894(明治27)ごろから、近畿や四国において、資産家の家に押し入っては、家人を針金で絞殺し、金品を奪う行為を繰り返していた。
「剣術家の針金強盗団」と呼ばれた凶悪犯で、悪質極まりないものであった。
また4人は、大阪弁を話し、剣術については、みな免許皆伝の腕前であったといわれている。
特に首謀者の貝原は、かつて大坂与力同心剣道指南役であったと伝えられているが、明治維新当時10歳の貝原が、本当に指南役だったとは思われず、尾びれの付いた話と思われる。
4人の剣術の腕前が発揮されたのが、警察との格闘であった。
大阪府の玉造(たまつくり)では、包囲した警官隊を殺傷し逃亡したほか、高松市でも同様に、警官隊10数人を負傷させ逃亡した。
1896(明治29)12月末には、兵庫県の阪神沿線にある資産家の別荘を襲撃し、中にいた請願巡査2名を絞殺し多額の現金を奪った。
請願巡査(せいがん・じゅんさ)とは、個人宅警備のため常駐していた警察官のことである。
当時は、警察にお金を払えば、家の警護をおこなってくれる時代であった。
この一件で、兵庫県警が厳重な警戒網を敷いたことにより、4人組は、須磨(すま)で船頭に変装した腕利きの警察官に発見・包囲されてしまう。
抜刀しての乱闘となったが、ついに逮捕された。
なお、この時も多くの警察官が負傷し、貝原は警察官1人を殺害している。
広島護送死刑囚脱獄事件
4人組は死刑宣告後、6月に九州の三池炭鉱にあった三池集治監(刑務所)において死刑が執行される事になり、護送されることになった。
4人の死刑囚は、九州まで徒歩で移送されることになったが、剣術家であるため腕利きの警察官が交代しながらリレー方式で護送された。
途中で4人の高松での事件の共犯として、無期徒刑(無期懲役)が確定した高橋某(たかはし・なにがし)も一緒になっていた。
6月19日、5人は広島県佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)にある、廿日市警察署(はつかいち・けいさつしょ)に、午後5時到着。
この日は、署内の留置場に宿泊することになった。
次の日には山口県警に引き渡され、広島県警の担当が終わるはずであった。
午後9時頃、貝原と福永の2人が「寒いから」と布団の差し入れを要求。
看守の巡査はそれに応じ、小間使いに留置場に布団を差し入れさせた。
ところが、これは留置場の扉を開けさせるための口実であった。
2人は不意を付いて小間使いに布団を被せ、外に出て看守の鳩尾(みぞおち)を殴打し気絶させると、鍵と帯剣2本を奪い、他の房にいた湊と明石を外に出した。
熱を出し寝込んでいた高橋を放置されている。
4人は、東の観音村方面に赤い囚人服を纏ったまま脱獄。
警察は、ただちに広島までの街道各所に警戒網を張った。
捕り物
6月21日午前1時頃、五海市(現在の広島市佐伯区五日市)市街を通行中との急報が、五海市駐在所にもたらされる。
同駐在所の巡査、壱岐盛丈(いき・しげたけ)が駆けつけたところ、付近の住宅で、女性を切りつけて家内を物色中の貝原と福永の2人を発見。
2人が帯剣で襲い掛かってきたため、壱岐も仕込杖に装備された刀で応戦する。
斬り合いになり、壱岐は両腕を切り付けられる重傷を負ったが、福永の首を斬り落とす。
また、貝原もメッタ斬りにして打ち倒した。
この一連の出来事に対し、中国新聞の1897(明治30)6月26日の紙面は「壱岐巡査ほまれの太刀風」と賞賛し、療養中の壱岐のコメントを掲載した。
なお貝原は、広島監獄に収監されたが、怪我が元で、同年12月に死亡している。
残りの2人であるが、湊は壱岐の治療に駆けつけた住人に発見され、警察官に逮捕された。
明石については、そのまま消息不明となり、日本では珍しい死刑囚の脱獄が成功している。
その後、時効が成立したと思われる。
その後の壱岐巡査
壱岐盛丈は、警察官の職を辞した後、晩年は広島市議会議員を務め、1930(昭和5)に死去した。
なお壱岐が使っていた仕込杖は、広島県の警察官練習所(警察学校)で後進への教材として保存されていたが、1945(昭和20)の原爆により焼失している。