航西日記(15)
著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫
慶応三年二月七日(1867年3月12日)
朝七時ごろ、セイロンのホアント・ド・ガール(コロンボ)に着いた。
ここは、インドの属島で、洋中に孤立し、港は北緯六度一分にあって、土地は、熱帯に近く、年中、氷や霜を見ることなく、四季を通じて、木の葉の散ることもない。
土質は赤土であって、地味は肥えている。
土民は貧しく痩せているが、支那人とは人種も違って、性質は、やや順良勤勉なようである。
たぶん、長い間、欧州人に使役されたからであろうと言われる。
その風体は、髪を結ばず、裸足で、腰のまわりを、わずかに更紗の木綿で覆っているだけだ。
色は黄黒で、目はくぼみ、歯は黒く、唇は赤い。
下層民で、タバコを買えない者は、檳榔の実を噛んで、喫煙の代わりにしているので、自然に歯が黒く染まって、鉄漿をつけたように見える。
はじめはポルトガル領だったのを、オランダが攻め取り、その後、結局は、英国領となった。
港口の城門の上に、二匹の獅子が金冠を捧げているオランダの紋章が、今も残っている。
港口に岩石があって、波がぶつかり、上陸は、なかなか難しい。
土着民が小さな舟の一方に、材木を浮きにして、釣り合いをとった作りの舟で上陸させ、波止場は木造の小屋で、そのまま、すぐに城門につづいている。
門を砲兵が守備している。
それから少しのぼった所に、市街がある。
海岸は、全て砲台をめぐらし、砲門を設け、火薬庫もある。
旧式であるので、オランダ領のころに築いたものと思われる。
海岸の西の方に燈台がある。
鉄製で、高さ18メートルという。
海門庶務のハクーフルヌマン・エイシュンという役が、つかさどっている。
土地は熱帯なので、建物は全て、避暑の工夫をこらした作りである。
産物は多い。
とくに果実は良いものがあり、魚も新しく、食料は、すこぶる美味である。
椰子、バナナの実、オレンジ、たちばな、肉桂、サトウキビなどが良い。
カレイといって、胡椒を加えた鶏の煮汁に肉桂の葉を入れたものが名物である。
馬車を雇って、三里ばかり、山手に遊んだ。
なだらかな丘が起伏して、椰子が茂り、その間の水田では、田植えをしてあるのが見える。
また、水芋や蓮なども水上に青々としている。
五、六町も山を登ると、ひとつの仏寺に着いた。
寺の名を「ボーカハウア」という。
山門を入ると、正面の本堂は、いつも戸が閉まっている。
僧に頼んで、開けてもらう。
堂内に安置した、釈迦涅槃の像は、7ヤード(6.4メートル)もあり、磁製である。
全体は黄色で、ひたいに白い毛がなく、合掌して、側臥しており、胸から下は、衣類で覆い、衣類は鱗状をなしている。
堂の側壁や僧房、廟宇には、みな極楽地獄の絵が描かれている。
僧衣は袈裟だけで、裸足で、頭を剃り、眉毛を剃り落として、香をたいて、花を供えて、合掌読経する音は、禅宗に近い。
山の後ろは、仏骨を収めた所だという。
三層に築いて石垣をめぐらし、中に一樹を植えてある。
この木は菩提樹で、ほかに何もない。
さらに山頂に達すると、眺望佳絶、小亭があり、シャンペン酒などを売っている。
この山上から、はるか雲の彼方にそびえる山が見える。
霊鷲山であるという。
帰って来て、昼食をする。
給仕人は、みな裸体で、肌黒く、下半身に布をまとっただけである。
良い気持ちではない。
夜になってから、いくぶん涼しく、市中を散歩した。
土民の家屋は、シンガポールとだいたい同じで、貧しくて汚く、雑然としている。
島産の各種の宝石は、みな指輪に、はめ込んで売っている。
泡玉、サンゴ、真珠などもある。
ニセ物が多いので、みだりに信用できない。
象牙や象骨の細工物、椰子、黒檀、はりねずみの皮、籐細工、各種の木の見本、鼈甲細工、貝殻、美しい羽の小鳥など、各種のものをホテルの門前に持ってきて、争い売っている。
細工物は、みな欧州人が使うように作られたものである。
バイタラ経の古いのは、漆塗りに金字で書かれ、普通の物は、鉛鉄で、バイタラ葉、つまり、扇椰子の葉に書かれている。
中央に穴をあけて、紐で綴じてある。
その字体は、梵字とも違っていて、独特のもので、横書きになっている。
この港の三方が海で、わずかに一方に築き出した洲があるだけで、外洋の吹き返しを防ぐには十分でないので、停泊中は、うねりがひどく、船揺れがひどく、船中の器物が壊れることもある。
カルカッタ、ボンベイ、ポンジシェリーなどへの旅客は、みな、この港からの定期船を利用する。
気候は、やや暑い。
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