日本史人物伝 No.188
No.188 佐藤千夜子
1897(明治30)3月13日~1968(昭和43)12月13日
読み:さとう・ちやこ
姓:佐藤(さとう)
名:千代(ちよ)
芸名:佐藤千夜子(さとう・ちやこ)
性別:女
出身地:山形県東村山郡天童村(現:天童市)
日本初のレコード歌手。
佐藤千夜子の生涯
子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。
天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園)に入学。
在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受け、音楽を志す。
1920(大正9)東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学。
ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとアドルフォ・サルコリに師事した。
在学中に作曲家の山田耕筰(やまだ・こうさく)、中山晋平(なかやま・しんぺい)、詩人の野口雨情(のぐち・うじょう)らと知り合う。
その後、中山、野口と共に「全国歌の旅」に出た。
1925(大正14)ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。
「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。
発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。
1928(昭和3)中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターより発売。
「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなった。
同年「当世銀座節」を発売しヒット。
同年11月25日には、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演。
このときマンドリンオーケストラに注目する。
1929(昭和4)「東京行進曲」を5月1日に発売。
菊池寛(きくち・かん)の原作同名小説を映画化した作品の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲となった。
25万枚以上を売り上げ、大ヒットとなっている。
この曲を通じて、全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となった。
この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。
同年12月、ビクターで古賀正男(こが・まさお:後の古賀政男)のマンドリン・ギター歌曲をレコード歌謡として「文のかおり」「娘心も」などを吹込んだ。
1930(昭和5)イタリアのミラノに渡る。
理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。
現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力した。
1934(昭和9)功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与される。
しかし、オペラで名声を得ることはできなかった。
同年11月に帰国し、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり、果たせず終わる。
第二次大戦中は、南方戦線の慰問をして回った。
山本五十六(やまもと・いそろく)に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともある。
戦後は全く忘れられた存在となり、事実上、芸能界から引退した。
1968(昭和43)12月13日、がんのため東京都立大久保病院で死去。
享年71。
生涯独身で家族はいなかった。
クリスチャンだった千夜子の遺骨は、地元天童市の共同墓地に埋葬され、そばの壁には佐藤千代の本名で刻まれている。
中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。
華々しくも浮き沈み激しい人生は、結城亮一著「あゝ東京行進曲」(河出書房刊)で詳しく記された。