天に代わりて ~米国同時多発テロ直後の感想~
きくよしエッセイ 2001年11月03日 文化の日に 菊池嘉雄 67歳
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この度の同時多発テロ事件に関するブッシュ大統領の言葉を聞いていたら、ふっと子供の頃の「天に代わりて」の歌を思い出した。
小学校の、と言っても当時は国民学校と言い、小学生のことを少国民と言っていたのだが、その少国民四~五年生の頃、盛んに耳にし、歌った歌に「天に代わりて」と歌い出す歌があった。
天に代わりて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて帰らじと
誓う心の勇ましさ
あれから五十年以上たっても、忘れることなくすらすらと口に出てくる歌だが、当時はなんの意味だかよくは分からなかった。
今、改めて歌詞を見ると、天とは「天道」とか「天罰」とか「天誅」などの天のことであり、不義とは当時の米国と英国、そしてソ連や毛沢東らの共産主義のことであり、日本が正義なのだと主張していたことが改めて分かる。その主張はおそらく相手側の米国も英国も毛沢東も同じように「天に代わりて不義を討つ」であったに違いない。
この度のブッシュも「天に代わりて不義を討つ」と言っておりオサマ・ビンラディンも「天に代わりて不義を討つ」と言っているわけで、それぞれが頂く「天」が違うのだ。そして正義と不義の捉え方がそれぞれ反対になり戦うことになってしまう。
ブッシュは「やっつける相手はテロリスト及びそれに組みする者たちだけである」と言いながら「自由と民主主義に対する挑戦であり、これは戦争である」と言う、がこれはおかしい。「自由と民主主義」は欧米キリスト教・ユダヤ教社会のイデオロギーなのであって、全世界の民族に行き渡っている、誰もが認め納得している価値観とは言えないのに、それを持ち出すのはおかしいのにもってきて、テロ事件とはいわず「これは戦争だ!」と言うのだからなおさらおかしなことになる。(が小泉総理も「自由と民主主義への挑戦」を口にしているが)。まるでブッシュのほうからイデオロギー戦争に持っていきたいかのようだ。全世界の支持を得たいのなら「国際テロも国内テロも断じて許してはならず、法の裁きにかけるべきであり、それだけである」とすべきだ。ブッシュの言い方だと、やはりテロだけが敵ではなくて「宗教も含めたイデオロギー戦争」即ち「イスラム封じ込め」が本音ではないのかと思われてしまう。かっては共産主義が目の敵だった米国が、共産主義脅威がなくなった今は、イスラムを目の敵にし始めたように見えてしまう。そうなればイスラム原理主義者たちはひっこむ筈はない。
「自由主義」はあたかも最高原理のように日本でも言われがちだが、その自由とは必ずしも明確ではない。この場合の自由主義とは「自由経済主義」を指し、それは即ち自由競争主義のことだろう。そして「グローバル化」などと日本でもカッコ良く言われているが、要するに経済強者が世界を股に掛けて跋扈できるようにしようと言うことであろう。もっと平たく言えば「儲けた者が勝ち」の価値観の世界である。そういう世界や世間では精神的な世界はあまり重視されない。日本の企業も、長いこと会社を支えてきた部長であっても、会社が傾けば簡単に平社員に降格したり、解雇をせまったりするようになってきている。或る合同庁舎の食堂前には日用品や衣料品などの売り子が立つことが許されているが、最近、昼食時に食堂の入り口付近に弁当の売り子が立つようになった。食堂に入ると客は少なく、経営者のおばさんがうらめしそうな顔をしている。「大変だねえ」とおばさんに声をかけると、大きくうなずいて深い溜め息をついた。売り子の若い女の子は、ひとの食堂の前に立つことに何の抵抗もないかのようだ。あるいは抵抗は感じても上司の指示でそうしているのかもしれない。これが自由というものなのだろうか?。地方の都市や町で、経済強者である大型店の進出によって、正月初売りなど地域の伝統行事がこわれても、地元商店が次々と閉店に追い込まれても、大型店主は全然平気で商売の自由を主張するようになった。外資系経営者ならなおさらだ。「儲けることだけが全て」になってきている。私のような「心身共にひ弱な人間で、人情に頼ったり、誠実は報われると信じたがる者」はたちまち路頭に迷う世界である。日本は第二の経済大国などと言っているが、経済グローバル化からみれば、米国を中心とする経済機構の中にある日本株式会社に他ならないのではあるまいか。米国株式市場のデータに一喜一憂し、そこを読み誤ると大臣といえども失脚したりする様は、まさに、子会社の社長が失脚するのと酷似している。想像であるが、米国は中東やアフリカなどのイスラム社会に「自由経済競争」をしのび込ませ、或いは圧力をかけて、経済の覇権を握り始めたのではないのか。現地人にとって初めのうちは「仕事をもたらし」「富をもたらし」「娯楽をもたらし」「生活の快適さ」をもたらして、さらには「経済平等の可能性」をもたらしてくれそうだと受け入れたが、次第にそのいかがわしさに気がついたのではないのか。その結果、米国の進出を警戒し、「やはりイスラムはイスラムで行こう」としているのではないのか。
再び「天に変わりて」の歌詞に戻るが、終わりのほうに「勝たずば生きて帰らず」とある。当時の日本は「戦において精神は武器に勝る」とする完全な精神主義であった。「肉弾三勇士」や「神風特別攻撃隊」など、兵の身を犠牲にする戦術も実際にとられた。その精神主義は米英でも脅威であった。また「本土決戦も辞さず」「日本人たった一人になっても、竹槍を持って戦う」と言われ、米英ではそうした精神主義を知っていた。知ってはいたが、米国人には全く理解できないことであった。「勝たずば生きて帰らず」などという考え方は米国人には存在しないという。この歌詞はまさに日本ならではの歌詞だったのである。
イスラム原理主義者も自分の身を犠牲にして戦おうとする点では、かっての大和魂と似ている。大義の前に一身を捧げて悔いなしとする精神である。しかし、日本人とイスラム人では大変な違いがあることを見落としてはならないように思う。
「鬼畜米英」「一億玉砕覚悟」などと唱えていた日本人は、終戦となるや、手のひらを返すように進駐軍に笑顔を見せ、歓迎し、米国に傾倒し始めたのである。日本の隅々に米兵が入り込んでも何もトラブルが生じなかった。日本人は恨みも敵意も、終戦と共にどこかへ消し飛ばしてしまったのである。欧米人にはこういうことはないそうである。欧米人は敵に降伏し、支配されることを受け入れたとしても、恨みや敵意は抱き続けるそうであって、日本人がこんなに恨みも敵意も見事に消し去る民族だとは、米国は予想しなかつたと、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは「菊と刀」に書いている。この点で日本人は特殊な民族なのであろう。その点、イスラムの人々はモーゼやイエスやマホメットの時代から民族の争いを続けて、領土を乗っ取ったり乗っ取られたりしてきた人たちである。いわば恨みを晴らしあう歴史を生きてきたといってもよいだろう。だから、日本人のように「きのうの敵はきょうの友」などと米国と仲良くし、精神構造から衣裳風俗に至るまで米国化してしまうようなことに、なりはしないだろう。米国はこの点を日本並に見たら失敗するであろう。かって、小国ベトナムの共産主義化を阻止し、かつ米国化を計ろうとして、米国経済が傾くほどの軍事力を投入したり工作をしてもできなかったように。
テレビをみていると、ブッシュがどう言おうと、「ネクタイ属とターバン属の対立」「キリスト教圏とイスラム教圏の対立」に見えてしまうのだ。また、爆撃などでは「一般人を巻き添えにしない」と言うことで世界の支持をとりつけ、世界もイスラム側もその点を米国支持や米国批判の重要ポイントにしているが、これを見ていて、「あれ!広島、長崎の原爆投下は何で批判されないんだ?」との疑問が沸いた。相手国の軍事力やその指揮系統を攻撃するのであって、一般人に危害を与えてはならないというなら、東条英機や天皇の頭上を避けて、中枢から遠く離れた広島、長崎に原爆を投下したではないか。主要都市を空爆して民間人の皆殺しをしようとしたではないか。なぜ、これが批判されないのか?なぜ誰も口にしないのか?。それは半世紀前の戦争倫理だからというなら、なぜ半世紀前の戦争で中国や韓国から日本だけが悪し様に言われ、謝罪しなければならないのか?。謝罪するなら米国も日本に謝罪しなければならないのではないのか?その姿勢が全く米国にみられないのは、そして、誰もそれを口にしないのは、やはり「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということなのか?・・・疑問だらけで、私にはとんと分からない世界である。
自由を標榜する米国なのに、ブッシュの戦術を批判したり、疑問を呈したりする行動はできなくなりつつあるという。戦後日本人が口にしがちな自由など米国にだってないのである。書く手を休めて窓の外をみると秋風が吹いている。「物言えば唇寒し秋の風」か・・・。少国民の頃歩いた「いつか来た道」を、また歩くようになるのだろうか。
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