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生徒が書く、教師も書く。

社会人1年目から見てきた3年生が、間もなく卒業を迎える。
残り少ない彼らとの授業・会話を楽しんでいる一方、一抹の寂しさも覚えている。

桜 入学 卒業

アトウェルのレターエッセイ

3年生の授業は教科書範囲も終わったため、何度かここでも紹介しているWriting Workshopを参考に、書く活動を行っている。

Reading Workshopは1・2年目でも行ってきたが、いまいち「生徒が書きたいように書く」というイメージがつかめずにいて、Writingには手を出せずにいた。

しかし、もう3年生は卒業してしまうタイミング。
先輩教員にも助言をいただきつつ、Writing Workshopを学び直すことにした。

そして、『イン・ザ・ミドル』*を再読し、レターエッセイを書く活動を取り入れてみることにした。

*RW/WWの実践者として高名なナンシー・アトウェルの著書。
彼女は、2015年にグローバル・ティーチャー賞初代受賞者に選ばれている。

レターエッセイは、読んだ本について手紙形式で書くエッセイ。
あすこまさんの記事(上記)では、このように説明されている。

「僕の私の薦める本」のような雰囲気ではない。「3ページ以上」「本文の重要な一部分を抜き出すこと」「書き手の技術や意図について言及すること」などの条件が細かく設定されている。 アトウェルとしては、将来大学で批評を書く時のための練習用という認識でもいるらしい。

もちろん、レターエッセイは学習指導要領「読むこと」「書くこと」の指導事項にも準拠している(私としては、太字部分が特に目標として適切だと思う)。 

(1)書くことに関する次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 目的や意図に応じて、社会生活の中から題材を決め、集めた材料の客観性や信頼性を確認し、伝えたいことを明確にすること。
イ 文章の種類を選択し、多様な読み手を説得できるように論理の展開などを考えて、文章の構成を工夫すること。
ウ 表現の仕方を考えたり資料を適切に引用したりするなど、自分の考えが分かりやすく伝わる文章になるように工夫すること。
エ 目的や意図に応じた表現になっているかなどを確かめて、文章全体を整えること。
オ 論理の展開などについて、読み手からの助言などを踏まえ,自分の文章のよい点や改善点を見いだすこと。
(2)(1)に示す事項については、例えば、次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある事柄について批評するなど、自分の考えを書く活動。
イ 情報を編集して文章にまとめるなど、伝えたいことを整理して書く活動。

(1)読むことに関する次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 文章の種類を踏まえて、論理や物語の展開の仕方などを捉えること。
イ 文章を批判的に読みながら、文章に表れているものの見方や考え方について考えること。
ウ 文章の構成や論理の展開、表現の仕方について評価すること。

エ 文章を読んで考えを広げたり深めたりして、人間、社会、自然などについて、自分の意見をもつこと。
(2)(1)に示す事項については、例えば、次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 論説や報道などの文章を比較するなどして読み、理解したことや考えたことについて討論したり文章にまとめたりする活動。
イ 詩歌や小説などを読み、批評したり、考えたことなどを伝え合ったりする活動。
ウ 実用的な文章を読み、実生活への生かし方を考える活動。

書くために読む必要があり、その逆もまた然り……ということになる。当たり前だけど。
また、アトウェルの言う「批評」というワードが言語活動例にあるのも嬉しい。

教師も書いてみる

そもそも「批評って何だ?」と思う。

書く 鉛筆 ノート

大学の授業で学んだ気がする。
小林秀雄が書いた、「批評とはなんぞや」的な文章を読んでいたはずのに。

私なりに批評の定義してみると、「他者も納得できる自分の価値基準を定め、その基準にしたがって評価し、その評価を下した理由を説明すること」である。

これを読んでくださっているあなたは、「批評って何?」と訊かれたとき、どのように答えるだろうか。
私はまだよく分かっていない。

ということで、まず『イン・ザ・ミドル』の記述を参考にして、私がレターエッセイを書いてみた。

選んだ本は、『推し、燃ゆ』
芥川賞受賞で話題の本だし、生徒にも薦められると思い購入(私が紹介するより先に、既に買って読んでいた生徒がいた。ちょっと驚き)。

実際にエッセイを書いてみると、生徒の気持ちがよく分かる。
完全に手探り。「これでいいの?」という感覚がついて回った。

「推し」という言葉が一般的な名詞になってから、どれくらい経つだろう。考えてみれば、面白い言葉だと思う。「推す」という動詞が、「推し」という転成名詞になっている。「推し」たる存在が、今これを読んでいるあなたには、いるだろうか。その「推し」は何という名前で、どこが魅力で、あなたにとってどのような支えになっているのか。

『推し、燃ゆ』。極めて現代的な言葉が置かれることで、「燃ゆ」がネット上での「炎上」を指すことはすぐに分かる。この作品は第164回芥川賞を受賞しているが、個人的に第155回芥川賞を受賞した『コンビニ人間』と同じ匂いがする。どちらの作品も、いわゆる「社会不適合者」のレッテルを貼られた主人公の日常を描いている。それは目を背けたくなるような現実、我々がふだん見ようともしない現実である。

 主人公は、学校生活も家族関係も上手くいかない日々を送る女子高校生、あかり。そんな彼女にとって唯一の生きがいは、「推し」であるアイドルグループのメンバー・上野真幸(まさき)を追いかけることだった。しかし、そんな彼女にニュースが飛び込んでくる。

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」

 作中では具体的に触れられていないが、主人公は発達障害を抱えていると考えられる。
漢字を書いても、覚えられない。九九をいくら唱えても覚えられない。頑張っているのに、母親からは叱られる。
 人並みに勉強のできる姉からは、「あんた見てると馬鹿らしくなる。否定された気になる」と言われる。
 アルバイトでも、ミスを連発する。「いい、いい、おれがやっとくから、あかりちゃん生持ってって」と店長が言い、自分の尻拭いをしている。店長は普通、厨房にいて全体に指示を出す役割だ。そういう存在がわざわざホールに出てきて、「おれがやっとく」と言っている。

 そういう状況に自分が置かれたら、と考えてみてほしい。自分が一生懸命にどれだけ打ち込んでも、「周りは普通にできること」ができない。そうした生活を積み重ねていくうちに、主人公は「推し」を推すことしか人生の意味を見出せなくなっていく。
 しかしながら、最終的に、主人公はある理由で「推し」を推すことさえできなくなってしまう。

 それでも、理解のない家族は容赦なく彼女を追い詰める。
 「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」
「またそのせいにするんだ」
 「せいじゃなくて、せいとかじゃ、ないんだけど」

 発達障害のみならず、「外れもの」への世間一般的な理解は、作中におけるこの会話に凝縮されている。結局、家族はあかりに一人暮らしを勧め、彼女に対する責任を放棄しようとする。
「外れもの」の末路を「自己責任だ」の一言で片付け、その背景に注目しようともしない。あかりの家族と、私たちは同じではないか?

フィルターバブル、という言葉がある。過去のユーザー情報が読み取られ、各個人に最適化された情報や視点に囲まれてしまう状態を指す。例えば、TwitterやInstagramで自分の嗜好と似ている人だけがレコメンドされる(おすすめ欄に出てくる)。すると、それらをフォローし続けていくことで、自分の理想的なタイムラインができあがる。自分の投稿に対して都合の悪い意見を言うユーザーはブロックすればいい。
 自分の周りには、自分にとって都合のよい情報だけが存在する。それがまるで泡(バブル)に包まれているようであることから、このような名前がついた。

 今後、そういった傾向はますます強くなると考えられる。自分にとって都合の悪いものは、見えなくなっていくし、見なくなる。第72回カンヌ国際映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞した映画『パラサイト 半地下の家族』でも、広がるばかりの格差が描かれていた。この作品も、『推し、燃ゆ』『コンビニ人間』と同じ潮流をつくり出している。現代人が見えないところに追いやってきたものたちを、白日の下に晒している。そして、「このままでいいのか」と問いかけている。

 あかりの言葉から引用。

「あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな」

 ここで私が注目したことは、「推し」とは、彼女のそのものではない、ということだ。あくまで「背骨」。推しがいなくなったとしても、死ぬことはできないのだ。死ぬ勇気、覚悟が備わっている人間など、そう多くはない(自殺を推奨しているわけではない)。
 どんなに残酷な現実が目の前にあっても、背骨が抜かれて立って歩けなくても、それでも生きていくしかない。

 「推し」を失い、鬱屈とした日々が続き、真っ暗な孤独の只中で、主人公が感情を爆発させる最後のシーン。主人公は綿棒の入った箱を、自分の部屋の床に叩きつける。感情をぶちまける対象は、なんだってよかったはずだ。出しっぱなしのコップ、汁が入ったままのどんぶり、リモコン。
 でも、それらをすべて破壊したとしても、その後片付けは自分がすることになる。あかりが対峙しているのは、すべてが自己責任として自分に返ってくる世界なのだ。

 綿棒を拾うために、這いつくばる。「これがあたしの生きる姿勢だ」と主人公。

 経済力、学力。格差は広がるばかりである。今も、レッテルを貼られ続ける人々がいる。社会のどこかに、主人公のような人物がいる。目を背けたくなるような現実を直視させる点で、深い問いを身体の中に残す作品である。このような作品が評価されているということに、まだ私は希望を感じる。

「当分はこれで生きようと思った。」最後にあかりは、這いつくばりながら心の中でつぶやく。
 この本は、通奏低音のように、常に我々の頭の中に反響する問いを、読んでいる間じゅう投げかけ続ける。世界は「これで」いいのか、と。

こうして書いてみると、なるほど、ただの図書紹介読書感想文とは異なる。
まず、どのような点に注目してこの本を評価するのか、自分の中で基準が必要だ。
その上で良し悪しを論じる。

余談だけど、「結局、上野真幸が炎上した理由が描かれていない。その後、あかりがどうなったかも分からない。作者にその辺りを書いてほしかった」と、私にぼやく生徒もいた。
10点満点でいうと、この作品は5点らしい。
そういう視点で読めると豊かだよな、と思う。

生徒の書きに対するフィードバック

生徒には、毎時間「A入試対策」「B読む・書く」のどちらかを選択してもらっている。受験が終わっている生徒もいるので、残りの授業時数のうち最低でも3時間「B読む・書く」に費やすことがルール。

入試対策を多くやりたければ、「授業外に本を読んで、3時間まるまるレターエッセイを書くことに費やすといいよ」「過去に読んだ本で書いてもいいよ」とアドバイスしている。

まず、Google Classroomで課題を一斉配布し、ルーブリックを参照しながら書くよう生徒へ指示(課題にルーブリックが使える点も、さすがG Suite)。

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ちょっと新学習指導要領を意識してみた。

G Suiteは、コメント機能で生徒とやり取りができるのもいい。

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この生徒は上橋菜穂子をよく読んでいる。
同氏の他作品と比較して、作品の所感を述べていた。

レターエッセイを書き終えた生徒には、ルーブリックを満たす知識・技能がどこで使えているか、コメントで示してもらったり。

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また、毎授業の終わりにジャーナルの記入をしてもらう。

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専ら、生徒の見取りはデジタルポートフォリオ派なので、Googleスプレッドシートを利用。
これで読み書きの進捗を見取る。

また、カンファランスで直接コミュニケーションがとれる生徒の数は限られているので、オンラインでカンファランス・フィードバックができればと思う。

セルごとにコメントできる機能も便利。
特にコメントバンク(写真右側)。

よく使うコメントを貯めておけるので、効率的にコメントができる(意外と同じところで躓いている生徒がいる)。

毎授業後、こうしてすべての生徒のジャーナルとレターエッセイにコメントを残している。
こうした見取りがこれから全教科で必要になるのかな、と思う。

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「え?もう時間?」という書きの時間をつくりたい

ここからは、指導要領に関係ないことを。
授業の中で、「書くのが楽しい」「書くことで、自分が表現できる」と生徒が感じられる状態が理想。
読みに没頭する楽しさと同じくらい、書くことの楽しさも実感してほしいと思う。

指導要領に準拠した実践をしているつもりだけど、根底にある思いはこれ。

授業後も、「先生、今後の書き方に迷っていて、この話題で統一して書いていくか、それとも別の話題を書き始めるか……」「先生、読み手にこの設定を伝えるには、どうすればいいですかね?……」などと訊いてくる生徒がいる。
何より、チャイムが鳴って2~3分が経過しても、書き続けている生徒が毎回いる。

「え?もう時間?」と感じる生徒が、もっともっと増えてほしい。
そして何より、教師が書くことを楽しんでいる姿を見せたい(この文章も楽しんで書いている!)。

ただ、レターエッセイや批評に関して、まだまだ探究は必要。
『イン・ザ・ミドル』をもっと深く読み込もうと思う。

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