26.思考を手放す旅
私はよく、見える?系の人に
「思考を手放せ」
「意識が常に上にあがって足が浮いてる」
「ハートと子宮で感じなさい」
「エネルギーが首から上に滞っている」
「考えるな、感じろ」
「きちんとグラウンディングしなさい」
と会ったとたんに言われることが多い。しかも、それをどうにかしたほうがいいと。
確かに自分でも自覚はある。いや、大いにある。(笑)
常に何かを考えているし、思考の渦に巻き込まれて、一日中引きこもって動けなくなってしまうこともある。
起こってもいないことにすぐ意味付して、自分で自分を不安にさせて忙しくしてしまったり、人のことも自分のこともすぐ気になって深掘りしたり、分析したりしてしまう。
しかし、その一方で
「感性が豊かだね」
「感覚が鋭いし、繊細で敏感だね」
「直感力がすごいね」
「センスがいいね」
「表現力が素晴らしい」
などと言われることも多い。
相反するような性質が同居して、自分の中で、ずいぶん小さい頃から葛藤があった。
どれが本当の自分?と悩んで悩んで、どう生きていけばいいのかわからなくなった時期もあって、心理や精神世界のことから離れて、とことん日常生活を楽しんだりもした。
色々な鑑定をジプシーして、自分のことを沢山知ろうとした。(ホロスコープ、マヤ暦、四柱推命、姓名判断、数秘、、他にも色々、、。)
確かに、私はこの分析や深掘り癖、それから相反する感性はどちらも持って生まれたもののようだ。どの鑑定を受けても私の特性として出てくる。もちろん足枷になるようなものではない、ギフトとして。
だとするなら、何故いつもこの「思考癖」を指摘されてしまうのか。
確かに、人間関係のトラブルに陥った時は、この思考癖が足枷になっていることだけは薄々気付いていた。もし、この苦しい人生が自分で創りだしている、ということであるならば、どうにかしたいと思うようになった。
そこで、とにかく理由なんてわからなくてもいいから、思考を手放そうと一生懸命色々なことを試してみた。
瞑想(ヴィパッサナー瞑想も行った)、マインドフルネス、ランニング、音楽、土いじり、生け花、登山、ものづくり、アーシング、グラウンディング、料理、ヨガ、アート、、、書き始めたらキリがないけど、何でもかんでも思いつくものや勧められたものはやってみた。
色々なことに思い悩む時間を極力減らし、日常を楽しんだ。
けれども、何かが満たされない。つまらない。何かが違う。何故???
ただ感じるだけでは私の魂の欲求は満たされない。「足るを知る」って言う言葉はすごくド正論なんだけど、私にはそれがいつもしっくりこなかった。
そこで、逆の発想をしてみた。思考癖が喜びに感じたことはあるか?と。
色々思い出してみたら、明らかに自分が笑顔になる、気持ちがぱあっと明るくなる瞬間があった。
それは、クリエイティビティなことに、この「思考癖」を発揮した時だ。
創意工夫、試行錯誤など、創造に使った時。自分や誰かを笑顔にする時に使った時。誰かの助けになったり、幸せになる一助となった時。
今、こうやって文字にしただけでも、恥ずかしながら涙がじんわり出てくるくらい、魂が喜んでルンルンしている。
そう、私はこの繊細で鋭い感受性で受け取ったものをしっかり感じて、その上で何か新しいものやもっと面白いことに発展させたいという欲求を持っている。それを生み出せた時、私はやっと心から喜びを感じる。
何かが満たされないからとか、不安だから、不満だから、が動機ではなく、単純に、それが「楽しい」のだ。
なるほど。
確かに私が思考癖を指摘され、手放しなさいと言われる時は、自分や人を苦しめたり抑え付けたり、不安回避や正当化や保身や自責、他責のために使っている時だ。
思考を手放す旅をしてわかったことは、「思考」が悪いのではない。
意識の使い方だった、という訳だ。
だから私は文章を書くのが好きなんだと思う。自分が感じまくったことを、自分の中で分析、研究して、それを目に見える形にする。
これが私の「統合」なんだ、と思った。
そう考えたら、使い方を創造に使えばいいだけで、手放したらダメじゃん!!(笑)
ある意味、すごい素敵な才能じゃん!!って感動してきた。
濃く深く細かく感じることができて、それを表現できる。
それは、もしかしたらこの地球ってこんなに素晴らしいとこだよ、すっごく豊かなとこだよ!自分でいかようにも面白く、楽しい人生を創れるんだよって感動を伝えたいのかもしれない。
そういえば、昨日もチャネリングセッションを受けて、菊理媛様にちょっと叱咤激励を受けたところだった(笑)
「あなたの心が喜ぶことを思う存分して、そこからクリエイティビティを発揮することであなたが輝き、それによって周りも輝くのですよ」って。