274.自己肯定感というもの。
自己肯定感って、私の経験からいうと、固定していない。
調子のいい時には、勝手に高くなってるし、あれこれ気になることもない。万能感に溢れてる時もあるしね。
調子の悪い時には"私なんて"がベースになるし、1人の人間の中でも、自己肯定感は上がったり下がったりしているものではないのかな。
もちろんリズムや波のようなものなんだろうが、この3次元に生きている以上、上手く乗りこなしていきたいよね。
ずっと低いままだったりするなら、それは自然の動きではないから。
私は鬱病を患った時、生きているのが申し訳ない、というのが当たり前の毎日で、
とにかく我が身を隠さなければ、人に気付かれないようにしなきゃ、と引きこもりになっていった。
そうして、人目を完璧に遮断したはずなのに、いや、むしろ人目がなくなったからこそ、がんじがらめの自分が浮き彫りになった。
人目が無くなっても窮屈で苦しいのは、他でもない、自分が自分を罰していたから。
ただでさえ落ちまくっているのに、罰することで更に自己肯定感は下がっていく。
ということは、だ。
そんな自分を罰することをやめ、許したらどうなるのか?
今でももう充分頑張ってるよ、ここまでなるくらい頑張ったんだもの、その分自分を褒めて、沢山休ませてあげようよ。
今日は何もしなくていい、できる時にやろう。
やりたくないことはやりたくないと言おう。
やりたいことがあったら、それを第一優先にしよう。
など、それまでの自分では罪悪感を感じるようなことを沢山許可した。
そんな生活をしばらく過ごしていたら、ある時、ふと外に出たい、と思うようになった。自然に触れたい、と。
ただ風を、暑さや寒さを、空気の匂いを、全身で感じることに集中した。
体を動かすことに喜びを感じ、喋ったり、笑ったりすることができるようになり、
気が付けば、味のしなかったご飯が美味しく食べれるように、動かなかった身体が動くように、あれやりたいこれやりたいと、創造の欲求が湧くようになっていた。
そうしていつの間にか鬱は治っていた。
生きているのが申し訳ない、と思っていたのに、何か私にできることがあればやりたい!と思うようになったし、自己肯定感も低くも高くもなく、
上がったり下がったりしながら、自分の声を丁寧に拾ってあげて、自分はどうしたいのか?を行動で叶えてあげていった。
その"自分との対話"を丁寧に積み上げていくと、そのうち、自分との信頼関係ができて、そもそも自己肯定感が高い、低いを気にすることもなくなる。
どっちだっていいよね、今、自分と繋がっているなら。というように。
自己肯定感が高いからいいとか、低いから悪いとかではなくて、そんなの気にならないくらいど真ん中で生きていれたらいいんじゃない?ってこと。
揺らいでいい。
無理矢理、陽に固定しようとしなくていい。
どんな人生にも、陰と陽はあるからね。
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