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【エッセイ】言葉が滲み入る時(800)

先日聞いたNHKラジオの「絶望名言」のアーカイブは遠藤周作だった。放送の最後に遠藤周作の名言として「滅入った時に読書量が増え、そういう時にこそ書物に書いてある問題が実感として迫ってくる。自分の人生観などはそういう時に考えたことを元に形成されている」というような内容のことが言われていた。

20年以上前に読んだ国語の問題文にこんな一節があった。「若い人が小説を読まないのは実生活が小説よりも充実しているからだ」

このようなことは私自身も実感としてある。今幸せな人に他人の考えなど不要だ。貯金したり保険をかけたりするように、もしかしたら「今幸せなのは健康で充実しているからだから、精神の貯蓄として読書をしておこう」って人がいるかもしれない。だが果たしてそんな時に読んだ本で有益な精神の蓄えを得られるかは甚だ疑問だ。花に水をやる際に土が飽和量の水分を含んでいる時にしても意味がないのと同じように。

もちろんどんな動機で読書をしようが個人の自由だし、読書という行為自体に価値があることは自明である。ただ、いつ読むか、どんなタイミングで読むか、どのように読むか。それらはとても重要だ。貯蓄をするならきんをするのが最も確実なように。黄金に、あるいはそれよりも価値のある知性を手に入れられる本を読みたいものである。

だからといって必要な時だけ知性を磨くというのも違う気がする。もちろん、脳は土壌とは違うので先述の水やりのたとえは非常に陳腐である。ただ、ひとつの側面を説明するには十分だと思う。読書が影響を与えるのはなにも脳だけではないからだ。

私はよくラジオを聴いて「たまたま」知的な発見をすることがある。しかしこれにはカラクリがある。常に知性を求めるアンテナを張っているからラジオから流れる金言が心に滲み入るのだ。

同じ話を聴いて教訓を得るのか、子守唄になるのか。それはすべてあなた次第である。

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