映画「彼らが本気で編むときは」
映画「かもめ食堂」の空気感が好きで。
それから荻上直子監督作を何作か観た。これはその荻上監督作である。
「彼らが本気で編むときは」
は、母親に家出された女の子(小学5年生)トモが、おじのマキオの家を訪ねるとトランスジェンダーの恋人リンコと同居していて、それから3人の不思議な共同生活が始まる、という物語。
優しい世界があると思った。トモが辿り着いた場所は、当たり前にある場所ではない。複雑な事情が絡み合って、複雑過ぎた故に辿り着けた場所だと思う。
私は思う。どれくらいの確率でリンコのような人に出会えるのだろうか。彼女に出会えたトモは幸せだ。そもそも、おじのマキオが優しくていいヤツである。
世の中はいくつもの方向に広がっている。正解はない。何が今は正しいか、何が一般的に合っているのか、それはいつも私自身悩んでいる。誰しも向き合っていることなのだろうか。
キャラ弁を作れなくたって、夜遅くしか帰れず子どもと一緒に過ごせなくたって、母親としてやるべきことをやっていないとは思わない。一緒に過ごす時間が多くても、母親としてできていないことはたくさんある。
けれども、リンコが言った「大人が子どもを守らなくてはいけない」という言葉は刺さった。
女である、母親である前に、我々は大人なんである。大人は、未熟な子どもの手本であり、保護者なのだ。それは人間として生きる責任なのかもしれない。
複雑な人間たちが絡む世界だからこそ、不条理はいくらでもある。
黒板に悪口を書く子は、それをすることによって何かのストレスを発散しているのだろうか。
ついこの間まで、嫌なことをする奴に「ダサい」と言っていたのに、嫌がらせ対象者とは無関係ですよとアピールするごとく遠巻きになる女子。
トランスジェンダーのことを理解しようともせずに、「異常だ」という単純な言葉でまとめてしまおうとする大人。
いろんな世界が次々に現れる。その世界をどう泳いでいくのかを導いてくれる人がいるのは幸せだ。少しでも楽になる。
導ける人は、たぶん人よりたくさん心も身体も傷つき、たくさん誰かに救われた人だ。
リンコの母はよき理解者だ。デリカシーのないことも言うが、デリカシーがないからこそ、良識のようなものに囚われていない。
トモにとってのリンコ、リンコにとっての実母だ。
今、私には中学生のムスメがいる。ムスメの周りにも、この時代だからこそ問題が降りかかっている子がいる。
ムスメの中学では制服があるのだが、女子はスカートかスラックスを選べる。ムスメの友人は、スラックスを選んだ。
小学校から一緒にあがった子たちは、彼女の人となりを分かっているから、それを履いていることになんの疑問も持たない。
しかし、他校の子たちの一部は違う。
「あの子、女?男?」
と、いう囁き声や
「何?お前、性同一性障害ってやつ?」
と、からかってくる人がいる。
これは、おそらく無知からくる恐怖なのだろう。恐怖の正体を確かめたくて、無神経な言葉が生まれる。
ムスメの友人は、好きでスラックスを選んだだけだ。私も、もし同じ時代に生まれたらそれを選んだかもしれない。
しかし、例えそんな私でも、スラックスにしようか一瞬悩んだムスメに「周りはスカートが多いと思うよ。それでも大丈夫?」と言ってしまった。
ムスメを理解していない訳ではない。しかし、まだ理解が少ない世界に立ち向かうには、たくさん傷つくかもしれない。勇気がいる。強い心が必要だ。
理解が少ない世界に、ムスメ一人を放り出す勇気は私には無かった。傷ついてほしくなかった。
結局、ムスメはスカートを気に入って履いている。「長い方が好き」と、言って、周りがスカートを短くしていく中、長いスカートをずっと履いている。
そんなムスメを素敵だと思う。
傷つきながらも、スラックスを履くその子をカッコいいと思う。
その子の母親も、強くて理解のある素敵な人だと思う。
周りに合わせることを悪いことだとは思わない。それは、生きていく中で必要な能力だ。
悪いのは、自分とは違った他人を理解せずに批判する同調圧力だ。
「みんなが〜だから、〜しないといけない。」
という言葉は恐ろしいと思う。統率するには安易で便利な言葉ではあるが、そこからはみ出した者を認めようとしなくなる恐怖がすぐ隣にある。
人は人、他人は他人。
違って当たり前。何故なら自分とは別の生き物だから。
それは単純だが、一番理解しづらいことだ。
そんな複雑な思いがたくさん込み上げてくる作品だった。しかし、世界自体は、ずっと柔らかい空気に包まれている。
そんないい作品だった。
そうそう、いつか、女子だけでなく男子もスカートを選べる時代がくるといいよね。