古事記から紐解く日本人の思想(序章)
「古事記」から日本人の思想的なものはどこから来たのかという考察をしていきたいと思います。
何でこういう事に至ったかは、ひとつはお仕事で、古事記の絵本を描くことになり、調べ始めたら何やら、興味が日本人の思想、倫理観や無自覚な宗教観はどこからくるのかという興味にたどり着いてしまったのでした。
もともと、日本人は現代のような空気を読む、とか、大きいものに巻かれろとか、そういう思想がある様な民族だったのかしら。
というと、いや、その性質がいい方に出たり悪い方に出たりしているのかも知れません。
武士道というものがあった訳だし、損得勘定無しの誇りというものを持っていた筈です。
「お天道様が見てるよ」
という台詞も、その名残だと思いますし
さらにたどれば、八百万の神という、自然信仰的なものから来るかも知れません。
そう考えると日本人の持っている氣質として、共通の精神性は日本人のルーツを探ることにあるのかしら。
と思ったりして、日本最古の書物である古事記、日本書紀に興味を持つに至るのです。
まあ、その辺から、忘備録として書き記してみたいと思います。
まずはじめに、神話として語られる物語には、世界はどのようにできたか、というところから始まりますが
一神教の西洋と多神教の日本では、大分成り立ちが違います。
一神教と多神教の"はじまり"の違い
一神教の世界の"はじまり"
旧約聖書の「創世記」天地創造では最初から神がいて世界を作っていきます。神様は人格化されいて、後に自分に似た姿をした人間を作ります。
土をこねてアダムが出来たという話がひとつの例ですね。
日本では、古事記には"はじまり"は記されていませんが、「日本書紀」では、天と地、陰と陽は分かれておらず、混沌としています。
その中から軽いものは上に上がり、天ができ重いものは下に沈み、地ができ、そこからようやく神様が生まれます。
日本では、世界のはじまりはドロドロとした混沌だったというのです。
そして、この後、神様が現れますが、姿は見えず、独り神(男女の性別なし)で、すぐにお隠れになってしまいます。
な、なんで?
と思いませんか。
ここから古事記の話になっていきますが
長くなりましたので
また次回に!