🎵書く阿呆に読む阿呆。同じ阿呆なら... 「文学フリマ」大阪で、シアワセの道を知る。
数年前、「文学フリマ」なるものをはじめて耳にしたとき、ここにこそは絶対に行くまい、と思ったものでした。
「文学フリマ」は文芸創作愛好家たちが自作を紙の本の体裁にして展示即売するイベント。ジャンルは小説をメインに、詩や短歌などの文芸、またそれに限らず、ホビーや科学などの評論・研究書に至るまでと多岐にわたります。
これって、ああ、なんだか暗いオタクさんたちの暗いイベントなんだ、街の書店や図書館のようにシーンと静か、手作りの自作本を客が無言でパラパラ、それも、客=出展者っていう悲しく閉じたような息の詰まる空間...
そんな罪なる勝手なイメージを持っていた「文学フリマ」が、20年以上も前に第1回が開催されて以来、年々開催場所を増やし、今や全国毎年8ヵ所・9回開催というのです。大阪会場ではブース数は800を超え、一日で来場者は5000人、平均客単価6000円というから、たいへんな規模。
しかし、出版界における文芸ビジネスは息も絶え絶えのはずなんだけど、なんで?
かつて100万部を誇った有名文芸誌も、今や実売が数千部にまで落ちたものもあるそうでアンタンたる気持ちにもなるが、それでも刊行を続けようとしている出版社・編集者の方たちには頭が下がる思いもします。
ところが「文フリ」はそれとは別世界の盛況とのこと。それではと思い立って大阪会場に行ってみた。すると、見るべきもの、それは、陳列された自作本の数々、ではなかったのです。
もちろん、ふだんはちと恥ずかしい自分の「極私的な耽りモノ」、それをこのまま書店に並べていても違和感ない美本に包み込んであるのには目を見張ったのですが、それよりも心奪われたのは売り物よりも売り手たち。
どこまでも饒舌、恥ずかしげもなく自分を開きまくる作家さんたちの心意気だったのでした。
客のこちらがふと足を止めようものなら、腰のひけた文フリ初参加者のひやかし顔など一瞬で剥ぎ取り、作品に込めた表現者たる自らの「つもり」を浴びせられたこちらは気づけば「うんうん」「なるほど」の相槌人間と化し、ずっとどうしようかと思っていたおのれの首筋の筋トレができたのはよそに、作家さんのこのパッションに気持ちよく焼かれて、心身ともにこれ忘我の境地。
なんとなく様子見だけに、といった当初の心づもりも、この洗礼を受けてひっくり返り、よーし、食指解放!とばかり、おのれに鞭打つも、しかし800ものブースだ、例えば正直言って内心「これはちょっとな」と思って通り過ぎようとしたジャンルのブースさえ、これだけ堂々と並べたて、まるで魚でも売るように闊達に呼び込みされると、内面の壁というかガードというか、がどっかいってしまって、「どれどれ」と品定めなど始めてしまう自分に驚いてしまう。
さすがに、こちらをじっと見る視線に気づいて、素早い冷やかしに終わってしまいましたが。
それでみそぎを落としていただいたのか、その後は自分でもわかるくらい顔がほころび、心が踊り出しました。こちらもしっかりと開かれていったのです。
そんな作家さんたちの勢いに押されて次々と未知のジャンルへ。ブースでのコミュニケーションで楽しくおのれの無知を暴かれるぼくは、どこでもブンブン相槌人間。
「そりゃ、買ってもらうためやから懸命に売り込みするんは当たり前やろ」
そう思われるでしょうけど、何かが根本的に違う。
買ってくれたら嬉しいはず。でもそれは「稼げた」からではなく、「通じた」という心地よさ。自分が作ったものの価値を認めてくれた瞬間に立ち会える幸福。
まあ側から見れば、「書く阿呆に読む阿呆」かもしれない。
あの阿波踊りも究極の姿となるとまるで芸術、とても阿呆には見えないが、本質は「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」。
踊る阿呆になってはじめて見えるものがあるというわけです。
えらい作家だって紙一重で阿呆。芸術家は本質的に阿呆なのだ。
最初に抱いていた文フリへの偏見の正体は、推しを信じてもその自分を信じきっていない、つまり自分の中の阿呆になれない弱さから来るものだったのです。
自分を開ききった文フリ作家さんたちに教えてもらったシアワセへの道。
それは、「同じ阿呆なら書かなきゃ損々」のマインド。
さて、この我が身、どれだけ阿呆になれるか。