
戦いの始末は、無様であっても現実世界できちんとつけるべきことを知っている。ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』
隣にいてただ一緒に眺めてくれればいいい
「アメリカ文学の静かな巨人」リディア・デイヴィスが絶賛して知られるようになったのが、いわば市井の書き手のまま没した同じく短編作家のルシア・ベルリン。
その作品群。
暗黒の底にいながら、到底届いていないはずの光の束をひとり静かに見つめている。
彼女のそんな凛とした姿が浮かんでくるようです。
母の自死、三度の離婚、四人の子どものシングルマザーワーカー。親兄弟揃ってアルコール依存、それはベルリン自身までも。
そんな絶望の暗黒に立てば、息を吸っているということさえ光であり、やっと踏み出せた一歩は狂喜する冒険譚となる。
例えば『掃除婦のための手引き書』の中の一編。わずか二ページ、見開きで一望できて五分とかからず読んでしまえる「わたしの騎手」。
緊急救命士の仕事をわたしは気に入ってる。なんといっても男に会える。ほんものの男、ヒーローたちだ。消防士に騎手。どっちも緊急救命室の常連だ。ジョッキーのレントゲン写真はすごい。彼らはしょっちゅう骨折しては、自分でテープを巻いて次のレースに出てしまう。
そして、負傷したほんもののヒーローが今度は赤子のように泣く。そんなジョッキーの涙を「わたし」は母親のように胸で抱き、受け止める。そのとき、「わたし」は神を目にする。
そこには、誰の心理描写も、ない。そんな「説明」=「突起物」は設けられてはいません。
それに当てはまるような内面の凹みというか受容体みたいなものを読者に要求しないのです。
隣にいて自分の見たものをただ一緒に眺めてくれればいい。彼女の希望はそれだけ。
映画を映画館で観ることの愉悦は、他人と一緒に同じものを観るということもひとつ。隣にいる見知らぬ人と同じものを見、同じ空気を吸う。
でも、いま何を感じていようとお互いに知ることはありません。
実人生も全く同じ。それだけで十分なはずであり、それ以上の共有はことごとく無謀な試みに終わる。
「人間まがい」たちがヒーローと化す
アルコール依存、掃除夫・婦、マックジョブ、コインランドリー。
アメリカ社会では、悲しくもこれらは希望のない下層世界を指す蔑みの符牒。まるで人間扱いされず、当の本人たちもそう心得てしまっていて、『掃除婦の手引書』の登場人物たるや、懲り方を知らない連中ばかり。
だがルシア・ベルリンは「So what ?」とでもつぶやきながら堂々とその住人たちを語らいの主役に置きます。
彼女の手にかかれば、暗黒に棲む崩れかけた「人間まがい」たちが、そう呼んできた側とそっくり入れ替わって、みな美しいヒーロー・ヒロインと化す。
突き放した表現とは裏腹に、人間たちへの眼差しといったら、誰だって生きていていいんだ、とつぶやかせるような、とてつもなく優しいユーモアにもあふれていて、とにかく参ってしまう。
精神科医夫婦の豪邸に掃除婦として通う「わたし」。
その言い草が振るっています。
ドクターが訊く。
「きみ、なんでそんな職業を選んだの?」
「そうですね、たぶん罪悪感か怒りじゃないでしょうか」
わたしは棒読みで答える。
「棒読み」とあるが直截に表せば、
「そうですネー、たぶんー、ザイアク感かー、イカリー? じゃないでしょーかー」
とでもいったニュアンス。
暴いたつもりになっている礼儀知らずのドクターに期待通りの「正解」をお見舞いし、自身の誇りを守る場面です。
ルシア・ベルリンの語りはなぜこうも爽快なんでしょう。
彼女は少なくとも、恨みがましく他人の中に自分をねじ込む手段に文学を堕とさない。
戦いの始末は、無様であっても、現実の世界できちんとつけるべきことを知っている。
そんな静かだが気高い、漢気あふれるカッコよさがたまりません。
