欠如を反転させたとき、人は輝く。ナイーブな野生児、「七人の侍」菊千代が苦しんだアンビバレンツ。
これってオレそのまんまじゃねえの。
野武士の襲撃から村を守ろうとする侍たちと百姓を描いた映画「七人の侍」(1954)。
侍や百姓たちを演じる役者の中でひとり、舞台経験のない、芝居の素人だった人がいます。しかも、主役。
当時って、映画俳優は皆、芝居小屋の役者経験があった。好きで役者になった猛者ばかり。
そんな中で、はなから映画俳優として役者人生を始めたひとり。
それが、「菊千代」こと、三船敏郎その人。
でも、ひときわ異彩をぶっぱなしてくれている。
輝いています。まぶしいほどです。
熱海の旅館に缶詰になって脚本練りに唸っている黒澤明・橋本忍・小国英雄。
百姓を助ける侍たちがいかにも正義の味方ぞろいじゃ、まるで子ども向け映画だろうと、侍でもなく百姓でもない、強さと弱さをあわせ持つ「菊千代」が編み出されました。
ところが、存在が複雑すぎて人物造形が固まらない。
うーん、とんでもないやぶへびを踏んだか。
そこに、陣中見舞いか冷やかしか、3人の旅館を訪れた三船敏郎、33才。
菊千代のまだ未完成の人物像を聞かされ、
「うほっ。これってオレそのまんまじゃねえの」
三船のこの一言で、脚本家たちの頭の中で複雑だった「菊千代」像の焦点が一気に定まったのです。
侍ギライ、百姓ギライの中途半端なジョーカー。
百姓という出自への憎しみあれど、だからこそ同類への優しさがもれる。
ちからを信じて侍に強烈な憧れを持ち、弱い百姓を忌み嫌いつつも、侍を憎み、百姓たちを荒っぽく愛する。
思いっ切り荒っぽさに振り切っていても、その中には、根なし草たる悲しさと、それ故の優しさに満ちた反骨心が折り混ざっている。
愛憎と自己の存在矛盾に苦しむナイーブな豪傑。
これぞ、アンビバレンツの極致。
エライやつも弱いやつも死んじまえ。
ん? 三船敏郎もアンビバレンツの人なのって?
そうなんです。
「男が見てくれで商売するなんて、死んでもイヤなんです」
俳優に誘われても、映画俳優が大キライだった三船はそう言って断っていました。
戦後の混乱期、食うため仕方なく俳優になったものの、舞台経験もなかった三船は、口にはしないが「トーシローめ」という自分を見るプロたちの目を痛いほど感じていた。
それが三船の反骨心に火をつけます。
三船は、デビューの時から主役扱いに慢心することなく、独自に演技の勉強に打ち込んだ。その時のノートが大量に残されています。並みいる演技のプロたちに負けまいと死に物狂いだったことがわかります。
当時の映画スターたちといったら、いつも何十人ものとりまきを引き連れてまわる。台詞は付き人が脇でささやくので、覚えることもしない。
三船は有名俳優たちのこうしたふるまいを憎々しげに眺めていました。
彼は軍隊時代から、「エライやつ」が大キライだったのです。
三船は決めた。
どこにいくのも一人。身の回りのことはすべて自分でやる。
付き人はおろか、台本さえ持たない。台詞を完璧に覚えてからスタジオに入るから台本は必要ありません。
撮影の待ち時間では、大道具さんと一緒になって組みつけや片づけにともに汗を流す。
撮影が夜半に長引き、皆がはらがへってるのをこっそりラーメンを食べにいった若衆たちをぶちのめす。
三船は「弱いやつ」も大キライだったのです。
これ、映画の中の「菊千代」そのもの。
欠如が輝きを生む。
演技の勉強に熱中したのも、主役の自分がこけると、映画を作っているすべての人の努力がムダになる。その恐さ故もあったのです。
ただ、人間、勉強しただけでは輝けません。
あるべき姿を提示されてそれを勉強して100%なぞれても、それ以上のものになれない。おそらく自分自身が面白くない。その自分から出るものは、すでに誰かがやったことだからです。
映画俳優が大キライ。ならば自分が好きな俳優になってやろう。
古い体質の舞台役者経験がなかったからこそ、つまり、役者としては根無し草だったからこそ、他人が追随できない、自分なりの演技を生んだ。
後にも先にもない異様な存在感を持つ天才俳優は、アンビバレンツの中から生まれたのです。
欠如を反転させたとき、自分でも思いも寄らないものが自分から生まれる。
そのとき、人は輝く。
その三船が最も輝いたのが「菊千代」。
菊千代をやる三船は、とにかくとんでもなく楽しそう。
だから、何度観ても、菊千代が斃れる場面が近づくと、いくさの勝利のカタルシスなどどうでもよくなり、悲しい思いだけが募る。
ただ、不思議と一度も涙したことはありません。
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