自然を描くということは、自然の在り様から物語を見つけ出すということ。
「自然を描くということは、自然の在り様から物語を見つけ出すということ」
そう語る水彩風景画家・木沢平通さん。
展示会最終日、図らずも1時間ものインタビュー対話になるきっかけとなった言葉がこれだった。
自然や宇宙ってヤツは、人間の感情などつゆとも関知しない、恐ろしいほどに無目的な存在。
何もかもの一切が、理由や目的なしに存在している。
宇宙のチリ一つから、我が身に至るまで。
けれど、厳然としてヤツらと自分はここにいて、とかく目障りであったり、なぜか感動したりとウルサイ存在だ。
なぜヤツらと自分がここにこうして存在しているのか。
その理由は?
理由を形作る因果の連なりを物語という。
どうにか物語化して腹落ちしたいのが、人間の寂しい心情。
物理学者は宇宙の根源を数理で解明しようとする。
絵描きは目にできるものの解釈を光と影で試みる。
作家は言葉を駆使して心の空洞を縁取ろうとする。
でもそれは、新しい因果を発見するだけ。
いつまで経っても目的地に到達できない、遠い旅。
物語の完結を見ることはけっしてない。
答えがあるはずの数学を駆使する自然科学といえども、その使い手といったら、つまるところ生き延びることを至上とするこの寂しい脳みそなのだ。
欲しい物語は自分の内部にしかない。
むしろそれを悟った時にこそ、対象が新しい顔=物語を見せてくれる。
展示会会場の建物は自然公園の中にある。
行きがけに出会った写生の人がひとり。
それが件の主催画家、木沢さんその人だった。
主催者として会場内におさまることなく、気が騒いでどこにいっても始終、外に出て描いているという。
何を見てもどこにいっても、自然が見せる新しい物語を自分の中に発見できる人なのだ。
(「知るはサミシイ」の別バージョンとして書きました)
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