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日記「廃墟、寝落ち」

いつもとはちがう裏道を通って駅まで歩いて行く。目的地に着くまでに三軒ほど廃屋を見かけた。
そういえば僕の原体験のひとつとして間違いなく廃墟の経験というものがあるはずだったが、不思議なほどこれまでそれについて考えてこなかった気がする。

仕事に向かう電車の中では田中純『磯崎新論シン・イソザキロン』(講談社、2024)を読む。
よく知られているように、磯崎は「未来都市は廃墟そのものである」と書く。未来都市も廃墟も、どちらも日常の現在という時から切り離された風景であり、そしてまた廃墟化も都市の発展も偶発的な事件、出来事の連続によるという。すなわち「この点で、都市の成長と廃墟化は時間の向きが逆転する点のみが異なる同種の「プロセス」である。」(p.138)

廃墟にノスタルジーではなくプロセスのみを見出す磯崎の視線は、ロマン主義的な廃墟への目線とは幾分異なるものなのだろう。だから《ふたたび廃墟になったヒロシマ》などのイメージが倫理的に可能になる。ロマンチックな感傷を廃墟に見ているのではなく、プロセスとして未来のヒロシマがふたたび廃墟になるに過ぎないのだから。

では僕自身の廃墟に対する目線はどうなのだろうか。何となく昔から廃墟は好きだったがそれがなぜかについてはあまり考えてこなかった。

まず第一に、やはり日常の時間とは切り離されていること。そこで起きている植物による侵略、風雨による痕跡とその集積に、自分自身が関わる隙間はない。自分に責任のない破壊の結果を美的に堪能できることが廃墟の魅力だろう。
それから屋根があり、安全に風雨をしのげる場所であるはずの建造物の内部が、外界と繋がってしまっていること。それでも建物がかつて持っていた外界との区切り、その力は完全には失われず、区切りの名残りと呼べるような空間が現れる。結果として廃墟はだんだん庭と区別がつかなくなってくる。

とかなんとか布団にくるまりながら日記を書いていたら寝落ちした。
前の日の夜に日記をどうまとめようか考えていた気がするが、それもどこかに霧散していってしまった。

日記を書くとき、なにか具体的な対象があればそれを思い描く。昨日であればそれは廃墟である。夜、廃墟について考える。それも薄暗い布団にくるまりながら。廃墟には電気が通っておらず、屋根もない。頭の中に形を結ぶ廃墟のイメージは、だから夜に包まれている。
真夜中に荒廃した夜のしじまについて布団の薄暗さのなかで考えるということは、三重の夜を一身に受け止めるということなのかもしれない。そんな状況にここ最近朝から仕事をしている僕は抵抗できるはずもなく眠りへと滑り落ちていってしまったのであった。書いてから思ったが「朝から仕事をしている」って普通のことすぎる。たまに週に5日とか働くと自分が偉人のように感じるが、いわゆる社会人はみんなこれをこなしていると思うと本当にすごい。
いったいみんないつブーメランの練習をするのか?

それからもう一つ寝落ちして思ったことは、やはり日記は夜のうちに仕上げるべきだということ。夜になってモヤモヤと形がまとまりかけている「今日一日に考えたこと」という色つきの霧のようなものが、朝の透明な光で全部吹き飛んで行ってしまうから。

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