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「粒子について」

僕は粒子という言葉が持つ魅力にずいぶん長いこと惹かれてきたように思う。光が粒子と波の二つの性質を持つことを知った幼いころ、同時に僕はまたひどい花粉症でもあった。深緑の細い葉に付着している薄黄色の粒子には散々苦しめられてもきた。

大きな窓ガラスのそばで、冬の穏やかな日差しに温まった床によく寝そべっていた。埃が僕の四肢の動きによって生じた微かな対流によって螺旋を描きながら舞い上がり、それからゆっくりと降りてくる様子を眺めていただけで満足していたころが確かに存在している。

古代ギリシャにおいて世界の成り立ちを説明する様々な原理のなかでも、僕がエピクロスからルクレティウスへと連なる原子論に惹かれるのは、現在の科学的世界観に最も近いからではなく、なぜモノが見えるのかという理由づけを、モノから剥がれた粒子の薄い膜=シムラクラが眼球にぶつかるためであるとしているからである。ここに、幼いころの知覚に通ずるものを感じるのだ。

今日川辺の公園を散歩した。のどかな良い日であったがどうやらこの季節の北関東の川辺にはブタクサの花粉が飛んでいるらしい。空気中をみたす微小の粒子と、そのために限りなく透徹であるものの僅かな乱反射で少しだけ白んだ空気に、フィルムの質感を感じる。

フィルムカメラの質感にノスタルジーを感じるのもそれが単に過去の技術であるというだけでなく、幼い時分の記憶に定着する光がそもそも粒子状であるからではないか。

今日散歩で訪れた川辺を、夜になってフライトシミュレーター2024で再訪した。さすがにブタクサの花粉までは再現というわけにはいかないようだ。



冒頭に書いたように幼い僕は光の性質に驚き、そして花粉症がひどかった。いつしかそれは花粉のように光の粒子が肌に付着するようなイメージへと混成し、そのために陽だまりの中に留まるような経験に一つの特別な質感を与えていた。
最初に通った小学校は僕が2年生の時に統廃合で無くなってしまったが、そこの校庭にあった半分埋まったタイヤの遊具が好きだった。多分跳び箱のように飛び越えるのが正しい遊び方であったように思うが、僕は晴れた日にそのタイヤに仰向けになって空を見るという遊び方で休み時間を過ごしていたことを覚えている。
太陽から発せられた光の粒子が僕の仰向けの面に付着し、その一粒一粒が熱を持っているかのようにしばらく暖かさが持続することにえもいわれぬ満足を感じた。
 

散歩をしたあと、アトリエに行き絵を描いた。その後ズームで打ち合わせをした。
そういえば、今僕が使っている岩絵具も粒子である。マティスは美術館のゴヤを見て絵画は言語にほかならないと思ったらしいが、つまるところそれは、絵画とは一つの光であるということだろう。はじめに言葉があり、そのうちに命があり、そしてそれは光である、と聖書はいうのだから。
光の経験が粒子状であるならば、僕の描く絵も光について、言葉についての表現であるということもできるかもしれない。いや、マティスの作品であればそう言えるかもしれないが、やはり僕の絵はそこからは遠く隔たってしまっているのだろう。

アガンベンのいうように始まりの微光を湛える一つの盤面=ハローンこそが、僕が目指すべき平面であるに違いない。

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