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日記「道の駅の鳥と天使」
那須から帰る。
帰路、途中で寄った道の駅には立体作品が多数置いてあった。工芸品を売っている建物もあり、那須という土地のものを作る人間の多さを感じる。
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とり。違和感のあるとりだ。おそらく羽のついている位置が高すぎる。羽は人間で言えば腕に相当するのだと思うが、だとすれば胸の筋肉から指までの繋がりを表現しないとにせものの羽の飾りをコスプレでつけた犬のような形になってしまう。
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人の造形物にケチをつけるなんて意地の悪いことをしているヒマがあれば、逆に羽のつき方に違和感があることで生じる積極的な効果について考えるべきかもしれない。それはいつか自分の表現のヒントになるかもしれないし。
鳥には当たり前に存在している羽というものの、その当たり前さを疑っているのかもしれないと考えてみる。羽のつき方に違和感があることで、羽=飛ぶためのもの、という等式に疑義が挟まれる。羽のついたコスプレをしている犬がそうであるように、それは純粋に装飾のためだけに存在し、飛ぶという生存活動に不可欠な機能を失っている。
たとえばデューラーの有名な水彩画がある。
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剥製か何かを克明に描いたこの作品における羽は、飛ぶ機能を失っている。デューラーの入れた年号とサインが、単なる習作ではなく一個の作品として足るという彼の自信を窺わせる。
些かありふれた物言いではあるが、飛ぶためについている器官としてではなく、単なる物体としてみるとき、その色彩や形態が用途から解放され、ものそのものが浮かび上がってくる。
そしてデューラーの場合、作品中あるモチーフに別のモチーフのイメージを紛れ込ませることも多々あったらしい。布のデッサン習作に横顔のイメージを混ぜたり、遠望の崖に恐ろしい顔が見出せたり、と言った具合に。
この羽の水彩画もまた、羽そのものであると同時に、それを超え、羽ではない何かに横滑りしないかとデューラーが(あまりに)真剣に模索した結果だともいえよう。
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このあたり、遠くに見える山並みのようでもある。
あるいはイリヤ&エミリア・カバコフのインスタレーション《落ちた天使》の羽を思い起こす。
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http://www.kabakov.net/installations/2019/9/8/the-fallen-angel-1
この作品における羽もまた、飛ぶという機能を自然に喚起させるには違和感のある造形ではある。いや、むしろ記号としての羽が、芸術作品として現前していることへの違和感なのかもしれない。芸術であるというからには、なにか羽の記号が意味する以上の意味、または無意味がそこに在るはずだという思い込み。
つらつらと羽について気の向くままに書いたが、結局道の駅の鳥も、カバコフの天使も、その羽は記号なのではないか。
道の駅の鳥になにか惹かれるものを感じたのは、そこに漂う微かなカバコフっぽさの所為だろう。
記号としての羽がついた鳥も天使も飛ぶことはできない。いや、正確には未だ形になる手前、作家のイマジネーションのなかに留まっていたころ、鳥は自由に飛べていたはずだ。しかし、造形として現世に現れた瞬間、羽は記号となり鳥は飛べなくなる。
カバコフの天使もまた同様である。このインスタレーションが実現された瞬間、天使は地に落ちる。
Police couldn’t answer when and how this incident happened; some of the witnesses, who were close to the site, heard only a thin and high sound, and people passing by in the cars say that similar incidents of unexplained falls started to happen more often at the end of our century.
この、一種のフェイクドキュメンタリーとして作られているインスタレーションのなかで、警察は天使がいつ落ちたか答えることができなかったという。ほかの人々も音しか聞こえなかった。それもそのはずで、天使はそもそも飛んでいなかったのだから。
天使が落ちているのがよく目撃されるようになったのは前世紀の終わり頃かららしい。そこには、以前の日記にも書いたベンヤミンの言う進歩という名の「強風」が弱まったことも影響しているかもしれない。
道の駅の鳥も、おそらくその頃の作だろう。はたしてそれは単なる偶然と言えるだろうか?
まぁ言えるか。