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日記「みなの国のえんしょうさん」

僕はドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが好きだ。制作においてもかなり影響を受けている。ベンヤミンを写した有名な写真が何枚かあるが、いずれも「土星の徴の下に」生まれた憂鬱質の人間特有の繊細な翳りを見ることができる。
僕は残念ながら?ベンヤミンとは全く違う気質の人間だが、唯一共通点があるとすれば、自身の幼年期への眼差しにおいてだろう。そこにはさまざまな種類の光、たとえばそれは庭の木の葉を透過して自らの肌に降る光であり、また寝室からリビングへ降りる途中、階段の踊り場の上にある窓から注ぐ、まだ夜を引きずっている身体に沁みるあの光であったり、あらゆる穏やかな光に満ちている。

と、書いていて思い出したが、やはり幼年期においてもまったく異なる気質であった気もしてきた。

僕が3歳か4歳のころに考えた「みなの国のえんしょうさん」というお話がある。僕の記憶では「みなの国」という国の大きな崖の上に住む「えんしょうさん」という男が主人公である。えんしょうさんはカーキ色の作務衣のような服を着ていて、ホウキでよく家の前を掃いている(この辺りは実際に僕が語っているわけではなく、表に出していない設定)。
彼の家の前には畑があり、自給自足をしている。いつものように畑を耕しながらのんびりと暮らしていると、崖下を流れる川の上流からライオンが流されているのを見つける。
慌ててライオンのもとに駆けつけるえんしょうさんだが、近寄って見るとライオンかと思っていたそれはなんと夥しい数のちんちんだったのだ。

驚天動地の結末だ。たぶんベンヤミンはこんなお話は作らなかっただろう。ベンヤミンやプルーストなど、特異な記憶力と感性でその幼年期を描写した文章に憧れはするものの、いざ書いてみると彼らとの違いが浮き彫りになるばかりである。

今日はここ数日重荷になっていた仕事を一つ片付け、ほっとした日だった。ほっとしすぎてアトリエのソファで珍しく寝落ちしてしまい、体が冷えてしまった。お風呂に入り体を温める。
僕は目覚めは良いのだが寝付きがあまり良くない。よく覚えているのが、小学校二年の頃、死んだあとの永遠が怖すぎて眠れなくなってしまったことだ。今でもたまにあるが、永遠というものの想像のつかなさは恐怖そのものであり、7歳ころの自分の限られた想像力を食い尽くして増殖し、夜の闇を穏やかで心地よいものから、全く未知の禍々しいものへと変貌させてしまった。
うろ覚えだが『存在消滅』という本でも著者が消滅への恐怖をはっきりと自覚したのが小学校二年の頃だと書いてあった気がする。なにかそのころに人は永遠というものの恐怖を認識するようになっているのだろうか。


前にもどこかで書いたが、小学校三年のころ、詩を作ろうという授業があった。僕はたしか「雪」という詩を作った。流石に正確には覚えていないが、以下のようなものだったような気がする

「雪、しんしんとふる雪。だれかの足あとがある。つもる雪は足あとを消していく……」

もう少し稚拙な言葉遣いだったかもしれないが、足跡が消えていく侘しさを三点リーダーを使って表現したことだけははっきり覚えている。この詩を提出したら担任に笑われた。
まぁませてると思われて笑われたのだろうが、これを書いた僕には多少の切実さもたしかにあったのだ。それは先の永遠の虚無への恐怖から生じる、無常との対峙である。
雪の足跡などという儚いものを詩として残すことで、移ろいゆく無常なるものたちを幼い自分なりに結晶化しようとしていたのではないか。
ライオンが実はちんちんだったとかいう話を作っていた人間が言ったところで説得力は全くないかもしれないが。


天才とは意識的に呼び出せる幼年時代である、と誰かが言っていた。誰だったっけ?
幼いゆえのある意味見当違いな切実さのままに、成熟した言語能力によって、完ぺきな布置関係へと構成することに成功したベンヤミン、プルーストは間違いなく天才だろう。

そんな彼らを傍目に、今日も僕はみなの国のえんしょうさんの思い出を胸に眠る。


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