「インディゴ地平線、海に住む少女」
今日は午前中仕事をして帰り、オリーブの丘でドリンクバーを頼み本を読みスマホをいじった。やがてアトリエへ行ったが、昨晩エアーポッズをどこかに忘れてきてしまい散々探したことによる寝不足であまり集中できなかった。それでもアトリエが田舎にある最大の利点の一つ、音楽を大音量でかけることができるという環境を活かし、爆音でスピッツなどを聴いていたら少し集中も回復してくる。
久しぶりにスピッツを聴いている。本当に良い曲が多いバンドだが、何か一曲を挙げろと言われれば僕は迷いなく「インディゴ地平線」を推すだろう。
高校2年の冬、本屋で表紙とタイトルが気に入り購入した光文社古典新訳文庫の『海に住む少女』(永田千奈訳、2006)を読むと、草野マサムネはこの話を基にして「インディゴ地平線」の歌詞を書いたのではないかと思うほどその詩的感覚が類似しているように思えた。新訳は2006年だが、旧訳は堀口大學の手により『沖の小娘』の名で1980年に翻訳されている。こちらを草野マサムネが読んでいるという可能性は0ではないのではないか。
そんなこんなで、この『海に住む少女』の絵本を描こうと高二の僕は思い立ち、「インディゴ地平線」を延々とリピートしながら描いたことを今日思い出した。
せっかくなので全ページアップする。無印かどこかで買った無地の白い本にボールペンでちくちく描いた。
以前この画像をTwitterにアップしたら訳者の永田千奈さんがリツイートしてくださった。この絵本の文章は訳文をさらに切り詰めて使用してしまっているので、出版されているわけではないもののなんとなく不安だったが、訳者である永田さんに反応をもらったことでなんとなくつかえがとれたように思った。
この少女の不安、死でさえも通り抜けてしまう永遠の非存在である少女のイメージは高校生の僕に強く印象を残したわけだが、この作品世界と「君と地平線まで遠い記憶の場所へ/溜め息の後のインディゴブルーの果て」という歌詞から始まる「インディゴ地平線」が僕の頭のなかで一体となり、いまだに水辺、特に海に対する隔たりを含み込んだ憧憬の源泉の一つとなっている。
海のない県で生まれ育った僕には海はそのように一つの畏怖、憧れ、そして自分(たち)のものではないという圧倒的な他者の経験そのものであった。青い服の怪しいおじさんがピンク色のワニを引き連れて海を目指す大竹伸朗による絵本『ジャリおじさん』も、その海までの距離に幼い僕はよくわからない魅力を感じていた。
街の真ん中をはしる渡良瀬川も、その流れに身を任せていれば海に辿り着く。以前YouTuberが川と海の境(気水域)の水を飲んで、ここからが海であると独断で確定する動画を上げていた。
生と死の境に気水域があるとすれば、それは少女の住む街のようなものなのだろう。