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「栗田美術館」

今日は義ママがこの街に遊びに来たので車がなければとても周れない街の名所を案内することにした。
この街には三つの日本一がある、らしい。一つは日本最古の学校、もう一つが日本一(世界一?)の大きさを誇る藤棚、そして最後が日本最大の焼き物の美術館、栗田美術館である。


前二つは行ったことがあるのだが恥ずかしながらこの街に住みながら栗田美術館は未だ訪れたことがなかった。今日初めて行ったが想像の三倍くらいのスケールの大きさであった。
展示物は主に、というか全て伊万里か鍋島である。庶民向けに有田で焼かれた伊万里に対し、鍋島は大名などに向けて採算度外視の材料などを使って作られた高級なものであるという。
日本文化に対してものすごく浅い理解で適当なことを書くと怒られそうだが、なんとなくこの2種類の焼き物を見ていてたとえば縄文と弥生、あるいは東照宮と桂離宮、二郎系ラーメンと淡麗系ラーメンなどの二項対立を思い出した。
全てある意味ではキッチュとモダン、野卑と洗練といった対立する価値観を体現している。

伊万里の大壺。東照宮感

二項対立とその脱構築が現代思想の原動力だとこの間読んだ千葉雅也の新書に書いてあったけれど、日本文化を流れるこの民衆と貴族の価値観の文化というのはどこの国にもあるものなのだろうか。
詳しくないので適当いうが、キリスト教圏ではこのような大衆芸術が持つケオティックなエネルギーが、キリスト教美術という名のもとに一元化してきたような
印象を受ける。教会が一応民のために存在するということや、ステンドグラスなどの図像が文字を読めない人々のために聖書を表すという説(芸大の佐藤先生はこれに疑義を呈していたが)などから、日本ほど文化の二元化が生じていないような気もする。キリスト教美術館の圧倒的なスケールはそうした上から下まで、全ての文化的エネルギーがそこに集約しているゆえのものなのかもしれない。

最近になって大体車で1時間圏内にある博物館などによく行っているが、そうなると必然的に日本の歴史や文化を対象としている施設が多くなる。今までヨーロッパの博物館、美術館と比べて日本のそれらの貧相さにただ不満たらたらであったが案外地元を中心に土着の歴史を見るのは楽しく、間違いなくここにも連綿と続いてきた一つの持続があるのだと最近理解してきた。

それでも絵画という一面から見たら正直なところ日本のそれは大変に貧しい。東京国立博物館や西洋美術館の常設展とたとえばイタリアのウフィツィ美術館やイギリスの大英博物館だったりを比べてみれば、当然といえば当然だが展示品のレベルがあまりに違い、外国から来ている観光客ががっかりしないかといらぬヤキモキをしてしまうほどである。東博などは、持っている国宝を常時全部出せばまだ差が縮むとは思うが、保存の観点からなかなかそうもいかない。
僕個人としてはものすごく暗くしたり寒くしたりしてでも常時展示する国宝を増やしてほしいし、そのために国の予算が博物館や美術館にもっとついてほしい。見るだけの気楽な立場で勝手なことを言っている自覚はあるが。

閑話休題。
伊万里と鍋島だが、伊万里はヨーロッパ向けの輸出が多く、主に宮殿などの装飾に用いられたらしい。日本の民衆向けの焼き物が海を渡ると貴族に愛されたのは少し不思議で面白い。
しかし、例えば今日見たやきものの中でなにかもらえるとしたら僕は鍋島を選ぶと思う。
どちらかと言うと僕は先の二項対立で言えば洗練側を好きになることが多い。民衆芸術に見られるケオティックなエネルギーが大勢を惹きつける熱を帯びていることは実感しつつ、その熱に触れると「アチッ!」となって少し引いてしまうこともまた事実だ。
栗田美術館の創設者はなんかバイタルフォースに満ち溢れているような人物だったが、この熱に突っ込んで炎に焼かれながらも踊ることができるような人間が一代で財をなしたりするのだろうなと思った。

物量に少々ぐったりしつつ近くの道の駅で椎茸と小松菜を買い、帰りにアトリエに寄って水張りをして今に至る。疲れたのでもう寝る。

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