![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164204074/rectangle_large_type_2_3b4da811744c5a6ce57b083b4ec7fa6f.jpg?width=1200)
「何も考えていない日、論理クイズ、ハーマン」
最近リュックを背負わず、手ぶらで仕事に行っている。正確には一冊本を持って。
今日は昨日買ったジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復 増補新版』(中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023)を片手に持っていって、電車の中で読む。
まだ途中だが大変勉強になる。「トラウマ」の訳語として心的外傷や単に外傷という言葉が当てられているが、この本を読んでいるとたとえば幼い頃に見た少し怖い映画などの記憶に気軽にトラウマの言葉を使うのも正しくないような気がしてくる。
近いうちに読み通したい。
*
職場の昼休み、論理クイズをみんなで解いた。
「ある国から別の国へ宝石を箱に入れて郵送する。送り先の国は治安が悪く、箱には南京錠をかける必要がある。南京錠はいくつつけても、どんなものでも良いが、相手の国にはこちらの南京錠の鍵がない。だからといって鍵も一緒に送ると必ず盗まれる。どうすれば安全に郵送できるだろうか?」
論理クイズには、現実にはありえない状況が登場するので変な面白みがあるが、このクイズの答え自体はなかなか納得感のある綺麗なものだった。
*
いつも使う橋が工事中でついに歩行者も通行止めになってしまって途方に暮れていたが、仮設の橋が建設されていたのでそこを渡って帰ってきた。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164199018/picture_pc_afff10e66e544f3a9672431b22da1cb1.jpg?width=1200)
なにやらモダンな仮設橋が出現した。おそらく工事を執り行う人がデザイン性などに思い煩わず機能のみで形状を決定したのだと思うが、逆に機能美の表れを見ることができる。
*
こうして日記を毎日書いていると、本当に何も考えてない日というのもあるということに気がつく。面白いのは、本を読んだからといって何か考えた一日になるわけではないということである。今日などは、『心的外傷と回復』という文句なしの名著を読みながら、一日としては何も考えていないに等しい日であった。それはこの本が、「考えさせられる」などというような、複雑な問題に直面した時の典型的保身の反応をしている場合ではないほど、切迫した著作であるからだろう。
このような本は、自分の意見などを差し挟みながら読み進めるような仕方ではなく、自我を減じて読むべきものであるように思う。
そんな次第であるので、間違いなく読む前よりもこの本が扱う領域についての思慮は深くなるだろうが、だからといって今日この日記になにか感想が書けるほど吸収の良いものでもない。それゆえに今日は案外何も考えてない一日となった。
クイズに頭を悩ませた時間も何か考えていたかというとそういうわけでもない気がする。ただ頭を回転させていただけというか。
何かを考えるということはどういうことなのだろう。数年前、絵を描くときなども案外ものを考えているんだなと思ったことがある。そのころオーディブルというAmazonの提供する本の音読サービスの無料体験を始めて、川端康成の『名人』を聴きながら絵を描いていたら、普段の4倍くらい疲労度が増すことに気がついた。本を聴きながら文章を書けないことは当然予想がつくが、絵も描けないのは予想外で、オーディブルは継続することなく無料期間だけ何冊か聴いてそれっきりであった。
*
何も考えていない日も、帰り道いつもより川に近い仮設の橋を渡るときのその風の冷たさや、職場にあった僕が好きではない花、デンファレのなんとも煮え切らない微妙な紫色と黄緑の組み合わせ、帰宅してから開封した豆腐の汁がズボンにものすごい量飛び散って不快な感覚を覚えたこと、そんなようなことはしっかりと覚えている。全てどちらかというとマイナスのイメージを纏う記憶であることに気がつく。ポジティブな記憶は案外きちんと記録しておかないと忘れやすいものなのかもしれない。