心配ごとの重力圏
僕の仕事は一種の季節労働のようなもので、毎年この時期になると受験が近づくため一気に負荷が高くなる。
拘束時間などが大幅に増えるわけではないのだけど、なんというか深宇宙からやってきた小天体が太陽の重力圏に捉われてしまうかのように、思考が知らぬ間に一つの心配事に捉われてしまうようなイメージである。
思考を能動的に動かすとき、自らの前進によって重力圏に近づきすぎて捉われてしまう。だとすれば、そこに落っこちてしまわないためには受動的な態度で物事に臨めばよいのだと思い、毎年この季節になると映画を見たりゲームをしたりして、頭の中からその天体=心配事を追い出す。
思えば受験生の頃からその癖は変わらない。当時、この時期に友人と毎日のように電話し、週末には渋谷で何をするともなく喋っていた。それから試験直前にはボウリングに行ったりして、出来るだけ思い煩う時間を減らしていた。あるいは、ひたすらスーパーテトリス2に収録されているボンブリスという変形テトリスを無心でやったりしていた。
前にも似たようなことを書いた気がするけど、日記を書くということは、今自分がどんなふうな仕方で思考を巡らしているか、そしてそれがどのように変遷しているかの定点観測になる。
やはりこの時期の日記は、巨大な天体の重力圏がどうしても頭上に存在しているので、あまり空中戦的な地に足のつかない文章は書くことができない。日記を書き始めたころの文章などを見ると、たった数ヶ月しか違わないのに今の僕には書けない文章を書いているなと不思議に思う。
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本を読むという行為も動画を見たりすることよりは能動的であるから、どうしても読んでいる最中に重力に引き寄せられてしまう。
最近は望月昭秀編著『土偶を読むを読む』はそんな中でも読みやすく興味深い本だった。読んでいて思うのは、縄文時代についてわかっていることはやはりかなり少ないのだなぁということ。そんな時代についてなら好き勝手言えるだろうと考えたのがこの本で批判されている『土偶を読む』だ。しかし、わかっていることが少ないということと、なんでも正解であり得るということは似ているようで実は違うのだとこの本を読むと気がつく。土偶の編年や出土などで、案外説の「不正解」は正確に割り出すことができるのだと知った。
何が正解かはわからないが間違っていることはわかる、というような在り方は案外誠実なものなのかもしれない。絵に関してもなんにしても。
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最近考古館や博物館に行くことが多いが、さまざまなところでかつて日本の考古学に致命的な打撃を与えた「ゴッドハンド」の傷跡を見ることができる。自分で埋めて自分で発掘し、世紀の考古学者を騙った男によって、随分と日本の考古学の信頼は低下してしまったらしい。そんなこともあって考古学のセンセーションには慎重にならざるを得ない部分が学会にはあるのだろう。
ある博物館にあった、ゴッドハンドによる発見がすべて潰された旧石器時代の遺跡の場所を記す金属のパネルを見てなんだかとても悲しくなった。当時の人は、彼の発見を本当に嬉しく思っていたはずだ。誇らしげに金属に彫られた発見の跡形は、今や痛々しい瘢痕となりその愚行を現代にかろうじて伝え残している。