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日記「ゲーム」

今日は一日仕事をした後にがっつりゲームをしてしまった。
今やっているのは《ドラゴンエイジ:ヴェイルの守護者》と、《RED DEAD REDEMPTION 2》。

僕は昔からテレビゲームが好きで、叔父さんと一緒にやったスーパーマリオワールドから始まり、スーパーテトリス2+ボンブリス(これはリマスターが昨日あたり発売したはず。嬉しすぎる)を家族でやり、それから小学校低学年でPS1を買ってもらってクラッシュバンディクー、チョロQ、ペプシマン、クレイマンクレイマンなどなど思い出深いゲームは数多い。
昨日のラーメンの話にも通じるが、この時期のゲームはかなり謎なものが多く、有名なところだとLSDやガラージュなどいまでも根強いファンのいる作品もあるが、玉石混淆もいいところで訳のわからないゲームも数多かった。しかし、そのカオスは未だゲームが新しいメディアだったころの熱を宿しているように思う。いまゲームはもはや新しい芸術の一つと言っても過言ではないが、その洗練と引き換えに失った泥臭いカオスに90年代生まれの郷愁を見てしまうのも理のないことではないだろう。

今までのゲーム人生で一番好きなゲームはなんだろうと考えてみる。最も長くプレイしたのはたぶんどうぶつの森+だと思う。小学生の頃の冬を思い出すと実際には体験したことのないかまくらの記憶が甦ってくるが、それはどうぶつの森をその頃やりすぎてゲームのイベントと現実の記憶とが混じってしまっているからだ。
ただ一番好きかと言われると少し違う気がする。少し迷ってみたが、たぶんチョロQHG2というゲームが僕にとっての一番だ。

人が登場せず、喋る車(チョロQだがガソリンで走る)のみが存在している世界が舞台で、いわゆるオープンワールドゲームのかなり初期の作例だと思われる。開始直後にどこでも行け、様々なイベントが各地に配置されているというゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを先取りしたような設計になっていて、もっと世界的に評価されるべきゲームだと信じている。

人間がいないことで独特の静けさが世界に満ちており、それから人間はいないのに何故かカーラジオからは人間が喋る声が聞こえてくるという不思議さもいい味を出している。
この、生物がいない世界でひたすら誰もいない高速道路を走っている時の孤独感と、遠くに街が見えそこに喋る車たちがいた時の安堵はなかなか他のゲームでは味わえない。
ストーリーなどはあってないようなもので、確か大統領をレースで決めるみたいな話しだった気がする。ゲームにシナリオを求めない僕の性格はこの辺で決定づけられたような気もする。僕がゲームに求めるのは、そこに世界が確かに存在していると思えること。その点で、思い出補正もかなり入っているかも知れないが20年前のゲームのグラフィックは、想像力の入り込む余地を残しており、逆に現代のものより「世界が存在すること」に対する説得力を上げていた。世界に余白が存在していたとも言えるかもしれない。
今の子供たちがチョロQをやったとして、同じ感覚を抱くのだろうか?それのもいまの子供たちは最新ゲームをやっても「世界の余白」を感じ取ることができるのだろうか?

悲しいのはタカラトミーがゲーム業界から手を引いたことで続編が発売されることが絶望的になってしまったこと。イーロンマスクはトランプに金を使ってないで300億円くらいタカラに寄付して新しいチョロQを作らせるべきだと思う。

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