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「悪夢、ネット怪談、陰謀論」

5年くらい前に一度見た悪夢をまた見た。

舞台はどこかの高級ホテルで、家族全員で旅行に来ている。なぜかホテルの隣にジャングルがあって、よくわからない仲間とともにそのジャングルの調査もついでにしている。
ジャングルの主はものすごくでかい白い虎で、普通のクマくらいでは太刀打ちできないほど強い。その虎に戦々恐々としながら調査を行なっていると、地面に血の跡を見つける。
跡をたどり、小さな部屋(ジャングルとホテルの間のような場所)に入ると主である白虎と、その子どもが何者かに傷つけられ瀕死でいるのを発見する。この強い虎がここまでのことになるのは尋常ではないと一行に緊張がはしり、恐る恐る隣の部屋を覗いてみると6メートルくらいあるクマが立っていた。
この時点でクマのあまりのデカさ、それが喚起する恐怖に「この夢昔見たことあるな」と気がついた僕は、この後ホテルのロビー階で行われている盛大なパーティー会場にクマが乱入してとんでもない惨事になることを思い出し、そこにいる家族にクマが来るかもしれないから逃げやすい入り口付近でご飯を食べていようと提案する。食い意地が張ってあくまでクマが来るまでは逃げようとしないのが夢らしく変で面白い。

そんな感じの夢。寝る前に見た韓国の戒厳令のニュースと、今日買った廣田龍平『ネット怪談の民俗学』のイメージ、それから昔見て深層心理に残っていたデカすぎるクマの恐怖が混じり合ってこの夢を見たのだろう。

夢は現実で体験したあらゆる事象が同一平面上に並んで、そこからランダムにピックアップされた諸々の要素を適当に繋ぎ合わせたような現れ方をしているなと思う。目が覚めているときはどうでもいいものと判断して意識に上がってこなかったものが、夢の中では思わぬ重要度を伴って登場してくることもしばしばある。

この同一平面上に諸要素が並び、恣意的なつながりによって再構成されるあり方というのは陰謀論などと似ている。違いはといえば夢の方の諸要素の連結の仕方は自分のコントロール外にあるのに対し、陰謀論は自分の信じるストーリーに合致する連結をする。
しばしば美術でもこの思いもよらぬ事象同士の繋がりは肯定的な意味で用いられたりするが、その幸福な関係が実現するのはおそらく夢と陰謀論の間、そのわずかな箇所に存在する連結の仕方を諸要素が採るときなのだろう。


僕はかつてネット怪談が好きで、だいぶ読み漁った結果、あらかた読み尽くしてしまいだんだんと興味が薄れていってしまった。『ネット怪談の民俗学』を読んでいて気がついたが、ネット怪談の中でも、僕はきさらぎ駅やひとりかくれんぼなど、現在進行形で何かが進むような、現実とフィクションの境がより曖昧なものにあまり興味が湧かないらしい。モキュメンタリーは好きだが。
掲示板文化がまだ元気だったころの怪談は、語り手がいて、聞き手がいて、語り手は一つのまとまったストーリーを持ち、それを伝承するというような古くからの語り部のスタイルだった。きさらぎ駅に代表される、周りの人間を巻き込み、参加者にする形で進行する怪談は、インターネットの特性を活かしきっているという点では新時代の優れた語り口ではあるだろう。『近畿地方のある場所について』という本ではこうした語り口を、まとまった形を持つオーソドックスなスタイルの怪談に逆輸入していた。
物語の最初から最後まで把握している語り部と違い、現在進行形で物事に巻き込まれている(という設定の)語り手には、今起きていることの断片しか読み手に伝えることができない。読み手はその断片的な情報をつなぎ合わせて物語を想像し、恐怖する。
そのような物語のあり方が、掲示板を越えてもう少し現実に近いところに現れたとき、陰謀論との相性が良くなり過ぎてしまったのではないかと思う。『ネット怪談の民俗学』では、都市伝説という言葉が本来の射程を大きく越えて広がっていく過程が解説されていたが、それと同期するように、フィクションの持つ諸要素の連結の仕方が現実にまで侵食し影響を与えている、気がする。
近年のインターネットもまた、夢と同じくあらゆる事象が信頼性の多寡に関わらず同一平面に相並ぶ一つの空間であると思うが、そうした空間が目覚めた意識に与えられるとき、そこは陰謀論の巣窟になることは自明であったのだろう。
ホームページ全盛の時代はまだ階層構造がこの連結を邪魔していたように思う。タイムライン上に韓国の戒厳令と思想家の喧嘩と可愛い猫の話題が相並ぶ。まるで悪夢のようだが、これはまごうことなき現実で、その事実に今日もまた悪夢を見てしまいそうだ。(ヘッダーは昨日の昼に公園で食べたドミノピザのトロピカル)

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