日記「塩サウナ、蝶」
あさ最寄駅から徒歩で職場に向かう途中、強風に抗い地面にしがみついている蝶々がいた。人間である僕でもふらついてしまう風に、この薄い羽しかもたずほとんど重さのない生き物がその場に留まっていること、その不自然さに大変な力強さを見る。
何の蝶だろうか、アオスジアゲハかな。
案外アオスジアゲハは街中に飛んでいるが、そのターコイズブルーを見かけるという経験はその度に常に一回きりのささやかな色彩の感動をもたらしてくれる。街にはあまり無い色、木々の緑と空の青との間のような色。それから夜のような手触りのセピアがかった黒。昼と夜が同居しているその羽には、よく見ると赤いアクセントが入っている。さながら夜の道路を目を細めてみたときのブレーキランプの残像だ。
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帰路に着く。家の最寄りに着く頃にはすっかり夜がふけていて、東京よりもだいぶ光の少ない街並みの上には田舎も悪くないなと思わせるほどには綺麗な星が瞬いている。
美しいはずの星空は、僕のiPhone XRではほとんど何も写らなかった。
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砂漠の民は、現代のものよりも遥かに暗く眩しい星空を見ていたはずで、地上に何も目印のないなか導きとなる星々を目指す彼らの中に唯一の神という概念が芽生えたのも不思議ではない。
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今日も風呂に行き、塩サウナというものに入る。スチームサウナのなかに塩の山が積まれており、これを体や頭皮に塗って汗で溶けるのを待ち、塗り込むのだという。
効能には大層なことが書いてある。曰く、抜け毛、白髪の改善、脂肪の排出、新陳代謝の正常化、などなど。塩にそこまでの効果があるならシャンプーに入っているような気もするが。
恰幅のいいおじさん二人が背中に塩を塗りあっている。スチームに包まれ半透明のぼんやりとしたヴェールの向こうで繰り広げられるその様子は、なんだか神話的な雰囲気を纏っていた。
僕はといえば、塩を一掴みつかんだらささくれに染みに染みて元気がなくなってしまったが、おじさんたちは見るからに肌が丈夫そうで羨ましいものだ。
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ノーベル文学賞を受賞した作家の本をすぐさま買うのはどことなく気恥ずかしく、あまり普段はやらないのだが、今回の受賞者ハン・ガン氏の『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房、2023)は、僕は読んでおくべき本だろうなと感じ先日購入した。
そこに、塩にまつわる一節があった。
「何かを腐らせずに守る力、消毒し、癒す力」を持つ塩のイメージこそ、塩サウナの魅力だろう。実際に塩にどのような効能があるかではなく、塩という物質と共に、蒸気で全てが朧に溶け合う空間に在ること。そこでは塩を塗り合うおじさんたちはさながら「塩の契約」を執り行う一神教の信徒である(塩の契約はメタファーだろうからそういうことでは無いかもしれないが。)
そんなおじさんたちを見ていて、そういえば僕は塩釜焼きという食べ物に憧れを抱いていたことを思い出す。塩を卵白で固め、そのなかで鯛などの魚を蒸し焼きにする料理だが、生ものが苦手な僕にとって、塩で清められているもののお腹に優しそうなイメージは大変重要である。
そしてまた、塩釜焼きにも再生の儀式のような神聖さを感じるのも塩のもつ力ゆえであろう。
おじさんたちの塩釜焼きが完成し、僕はささくれの痛みに耐える。
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昼と夜とをその羽に内包している蝶々が地面に留まるその束の間、全ての力を留まることに向けているその一瞬に、永遠への希求を見ることができる。願わくば風が止み、穏やかな日差しで暖まった灰色の縁石の上で羽を休めたい。
塩サウナの水蒸気の粒子が無数に煌めく空間にもまた、永遠への願いが存在している。そこでおじさんたちは今朝見た蝶々と重なり合っている。
そして僕はささくれの痛みによって永遠がまやかしであることに気がつき、一人嘆くのだ。
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