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日記「日記をつけて気がついたこと」

日記をつけはじめていくつか気がついたことがある。
まず、寝ている間に見る夢が強烈になったこと。寝る直前までアウトプットしているからだと思う。大学院時代の恩師の知人は午前中にしか文章を書かないらしい。そういえばマティスも晩年は午前中にしか絵を描かない生活を送っていた。しかし日記は午前中に書いてしまうわけにはいかない。

二つ目は、推敲しないとなかなか良い文章にはならないこと。当たり前かと思われるかもしれないが、たとえば絵を描くときは推敲というか、修正に修正を重ねれば良くなるかといえば必ずしもそうではない。最初に描いた線が一番良かったということは頻繁にあり得る。しかし文章に関しては推敲すればするほど良くなる。これは絵画と文章というメディウムの違いも影響しているかもしれないが、僕の実感としてはそれよりも未だ文章が身体化していない証左であるように思う。
日記に関してはなかなか推敲ができないが、しばらく書き続けていれば今よりは文章を書く力が身体化し、一息に描く力の抜けた良い線のように推敲なしでも良い文章が書けるようになることを期待している。

三つ目は、入力するデバイスによって出力の結果が変わってくるということ。主に日記はiPhoneのフリック入力で書いている。今日の文章はiPadのタッチキーボード。
最初は画面の小ささゆえの見通しの悪さからフリック入力で書くと文章が下手になるような気がしていたが、意外とその見通しの悪さがあることで可能になるリズムもあるかもしれないと思うようになってきた。逆にiPadのタッチキーボードは一番良くない。PCの物理キーボードは良いがiPadだと中途半端な見通しと誤タッチが続出するタッチキーボードの組み合わせによって面白みのない文章になってしまうような気がする。

四つ目は歩いて駅まで行くと、車で駅まで行ったときに比べはるかにスムーズに日記が書けるということ。歩き慣れた道だと思っていても、案外目は新しい何かを見つけてそれが刺激になっているんだなと実感した。やはり散歩は大切だということかもしれない。

文章の良し悪しというのはどこで判断されるのだろう。絵の良し悪しはなんとなく判断がつくし、ある程度言語化もできる。しかし、文章はとなると急にその判断基準に自信がなくなる。絵画でいうところのヴァルール(色価)のようなものが文章にもあるのだろうか。僕はいったいどんな基準で文章を書いているのか?何を持って「推敲したら良くなった」と判断しているのだろうか?
なんとなく僕は絵にも文章にも「引力」という感覚があるように思っているが、例えば単語が持つ引力があったとして、それらがページ内の布置においてお互いに影響しあって充溢した静止状態がもたらされているような文章が良い文章なのだと思っている。


それはそうと最近日記といいつつ日記では無いような文章を書いてしまっている。今日はちゃんと今日あった出来事について書こうかと思ったが、朝から仕事をしていたのであまり書けることがない。
今日はハロウィンだったので生徒がお菓子をくれたが、僕はすっかりハロウィンだということを忘れていたのでお返しのお菓子もなく、昼ごはんに買った素煎り大豆を放課後に配った。
「素煎り大豆」という単語の引力はいかほどだろうか。まぁおそらくそこまで強くはないだろう。それでも「昼ごはん」という言葉よりは強いかもしれない。弱い引力ともっと弱い引力、このままでは文章に力がないので何か引力の強い言葉を導入したい。そういう時は何かないかと本を開く。「ある墓地は消化するのが早いとされた」という非常に強い一文を見つけた。これを先の文章に入れて引力を整えよう。

今日はハロウィンだったので生徒がお菓子をくれたが、僕はすっかりハロウィンだということを忘れていたのでお返しのお菓子もなく、昼ごはんに買った素煎り大豆を放課後に配った。そういえば「ある墓地は消化するのが早いとされた」らしい。

なんだこりゃという感じだが引力は均衡したのでここから多少意味を整えると僕の思う良い文章になる、気がする。いや、やっぱりしないかもしれない。
意味を整えるところまで書きたかったけど眠すぎるので眠る。みなさん明日もお元気で、冷えに気をつけて。

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